【特別寄稿】「角さん」は映画「七人の侍」にそっくり

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長年、田中角栄元首相を取材してきたが、早いもので越後が生んだ庶民派宰相、「角さん」が逝って今年はもう33回忌だ。地元記者からみると角さんが歩んだ道は、黒澤明監督による世界の名作映画「七人の侍」とそっくりではないかと改めて感じた。戦国時代の貧しい村で繰り広げられる農民と七人の侍の関係は角さんの政治家人生そのものだ。まさに相似形だと思う。名作映画の名作たる由縁は時代が変わってもその訴えが通じるところにあるのだろう。

毎年のように野武士の集団に秋の実りをごっそり奪われる農民たちは、7人の喰い詰めた浪人を雇い一緒になって盗賊を撃退する。映画最後のシーンは、「盗賊はいなくなった」と村人たちは隠し持っていた酒を煽りながら飲めや歌えのどんちゃん騒ぎだ。その一方で、七人の侍の方は、4人が討ち死にという大きな犠牲を払う。名優志村喬が扮する親分格の浪人は喜ぶ農民を横目に「俺たちが勝ったのではない、農民が勝ったのだ」とつぶやいて映画は終わる。したたかな農民にとって侍たちは使い捨ての道具でしかなかった。

角さんが政界を目指したのは昭和21年(1946年)戦後1回目の総選挙、全県2区の大選挙区制だ。「若き血の叫び」と自ら墨書した選挙ポスターで戦ったがあえなく落選、角さんが勝ち続けるのは翌年昭和22年の選挙からだ。28歳の若き実業家が売り物だった。当時の世相は戦前のことは手のひらを返すように否定され、越後の貧村にも新しい風が吹き始めた。小作農として虐げられてきた農民は、農地改革で猫の額ほどの農地をもらい自作農として独立する。「生活を良くしたい、農村を豊かにしたい」という願望と売り出し中の若き衆議院議員を結び付けたのは歴史の必然だった。

旧新潟3区は中山間地、その政治力で道路や橋、トンネルは整備され首都圏への関越道は異例の速さで貫通した。戦前の新潟県では小作争議が多く「日本農民組合」が大きな力を持っていた。その日農も角さんの政治力に吸引されてしまう。各地の日農組織は次々と角さんの後援会「越山会」に衣替えだ。有権者58万人のうち9万人以上が越山会員、全国最強の後援会組織に成長する。後援会員だけの票で悠々当選、角さんは公共事業など地元利益誘導でお返しする。この繰り返しが宰相に登り詰める原動力になったわけだ。毎年、収穫期が終わると角さんの分身とさえいわれた本間幸一秘書が来年の国家予算の査定のため各市町村を回る。本間秘書が提示した公共事業予算は翌年の国家予算にその通り反映されたという。予算査定の会場周辺には「歓迎、本間幸一先生」というのぼりが秋空にたなびいていたのを見て驚いた経験がある。辺境の地の政治学は全国津々浦々昔も今も変わらない。映画「七人の侍」とそっくりだ。盗賊を退治して秋の実りを守ることは、国の予算を獲得して道路や橋を作るのと同じ、侍への見返りは多少の金品、角さんには選挙の度に票を積み上げた。控えめでおとなしい越後の農民も戦国時代と同じように賢かったようだ。

選挙になると角さんはいつも真っ白な手袋をしていた。恥ずかしながら駆け出しの私はなぜか知らなかった。側近に聞いてびっくりした。「先生は演説の後、多くの人と握手をする。手袋をしていないと女性の指輪で両手が傷だらけになってしまう」ということだった。昨今のネット選挙時代にスキンシップをこれほど大事にする政治家はいるのだろうか。こんな光景も目にした。暑い夏の日、街頭演説を終わると「ここのばあちゃんのナス漬けはうんめーんだ、ばあちゃんナス漬けくれや」ナス漬けを頬張る角さんを見ているばあちゃんは喜色満面だ。この村の得票率はいつも7割前後、残りを他の6、7人が取り合う落穂ひろいの選挙戦だ。あのばあちゃんは死ぬまで角さんに投票し続けたのだろう。忘れもしない昭和58年(1983年)12月の総選挙、ロッキード事件で懲役4年の一審判決が出た2か月後の選挙だ。公示日はあられやみぞれ、時折雪おこしの雷が鳴る大荒れの天気だ。長靴姿の角さん、山合の村の街頭演説で何を訴えたか記憶は定かでないが、あの鬼気迫る表情だけは鮮明に記憶している。その結果は22万票という大量得票、全国をあっと言わせた。有権者の4割以上の得票で越後人の意地を見せつけた選挙結果だった。

人の評価は棺を覆いて定まるというが、今太閤、闇将軍、刑事被告人と角さんの75歳の人生は、毀誉褒貶相半ばしてその評価はいまだ定まらない。徒手空拳で慌ただしく人生を駆け抜けた異形の宰相だ。映画「七人の侍」と生き写しではあるが、私なりに映画のその後を想像してみると一つだけ違う点に気が付いた。生き残りの三人の侍はまた職を求めて放浪の旅だ。戦国の農民たちは盗賊が来れば新しい七人の侍を雇うだけだ。比べて越後の農民は角さんが病で倒れるまでトップ当選させ続ける恩返しを忘れなかった。東京の人は「新潟の人は頼まなくても餅つきに来てくれるほど親切だ」と言う。越後人には情に厚い優しい心根があるからだろう。

文章:(一財)東京新潟県人会館理事 林 敬三
   (元BSN新潟放送代表取締役専務)