想いは「越後の雪椿」―「雪椿」ユキツバキの発見・命名秘話(3/3)

暮らしのヒント

伊藤忠孝先生の献身的な「雪椿・命名の経緯」探索

 この調査は、県の農業高校校長経験者の先生方、とりわけ、中澤喜昌元加茂農林高等学校長、小倉亥作元長岡農業高等学校長両先生とご相談の上、地元阿賀町にお住まいでこの地に詳しい、旧津川町隣の旧上川村ご出身の伊藤忠孝先生に託することとなりました。先生は、柏崎農業高等学校長、巻農業高等学校長を歴任された方でもあります。ご多忙な中、大変なご努力で詳細にこのことをお調べいただきました。伊藤先生の膨大な資料の中から、抜粋させていただきますと分かったことの要点は、以下のことでした。実は、本田先生はその著書「植物学のおもしろさ」(朝日選書1988)の中で次のように書かれています。「一方和名だけは 私の命名より早く他の学者によって 奥椿・雪椿 などの名がついていることが判明したので 先取権を重んじ かつ私のつけた猿岩椿より はるかに佳名の雪椿の名をもって呼ぶことになった」。


「植物学のおもしろさ」
著者:本田正次

 これによると「雪椿」は、命名者は本田博士でないことが、ご自身で述べられておられ博士が名付け親でないことがわかります。しかし著書の中では「他の学者」とだけ表現されており、その学者名は記述されていません。ちなみに、猿岩椿の云われは本田博士が「昭和22年岩手県胆沢郡若柳町猿岩にて、ヤブツバキとは異なる「種」の椿を発見したと発表した」と言うことからきています。いずれにしろ、ご本人が昭和22年と述べているのですから、ここでも県の昭和25年という記載事項は間違っていることになります。そしてこの記述に忠実になろうとすると、雪椿は発祥の地が岩手県になってしまいます。新潟県の県の木としては寂しいかぎりです。では県の資料記載の昭和25年以前の、明治39年の牧野先生のことは、父の記憶の違いだったのでしょうか。伊藤先生は、丸山先生のご出身地三島郡越路町を訪れご一族にお尋ねし、先生の書簡をお持ちの方をお探ししましたが徒労に終わりました。

 粘り強く、調査を続けているうちに、偶然県の図書館で、牧野先生のご出身地高知県に県立牧野植物園がありそこに牧野文庫が存在する事がわかりました。


高知県立牧野植物園

伊藤先生は謙虚に、偶然と仰っておられますが、お忙しい中のご努力に私は頭が下がる思いです。早速、高知の牧野文庫に問い合わせたところ、そこには明治時代の全国各地の植物調査委員からの問い合わせの標本や、書簡が保存されていることが判明しました。その牧野文庫学芸員の小松先生から、丸山先生のお手紙が発見されたとの連絡を受け、そのコピーを読まれたときの伊藤先生の喜びは想像に難くありません。内容は、まさに父の話していたとおりのことでありました。しかし、丸山先生が「雪椿と命名してよこされた」という牧野先生からの書簡が、先生の関係者から見つからない以上壁にぶつかってしまいます。途方にくれた先生は、あとは牧野先生の著書のなかに手がかりがないかと探求された結果、牧野先生の晩年の執筆「植物随想 我が思いで」の中の45頁に、次の文章が見つかりました。
 「ユキツバキは 雪椿で 越後山地の土言で在る 即ち 春雪の尚ほ 消えぬ時分 既に形の小さい 単辨の花を 樹に発らき 葉には 敢えて変わりは無い 乃こで、私は、之れに、Camellia japonica Linnaeus var echigoana Makino(nov.var.)の新学名を附けた。」とありました。
 何を資料にして、そして何時ごろ「越後の雪椿」として、新学名を付けられたかは、今調査をお願いしているところでございます。これらの他に伊藤先生は状況的な証拠となりうる事実を細かく探査されました。

筆者:髙橋 登氏
(一財)東京新潟県人会館・理事
(株)吉池 会長
 父・髙橋與平氏は、(株)吉池の初代社長

 次号につづく (会報誌:2021年9月)