六道の辻(1/3)

暮らしのヒント

大原 精一

一.六道の辻とは

 京都の鴨川に架かる松原橋を東に渡り松原通を行くと、左側に六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)という寺が見えて来る。この境内が「六道の辻」である。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天を指し、我々はこの六道を輪廻転生しているというのが仏教の教えである。
 徒然草に「あだし野の露消ゆる時なく鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば」という一節があるが、この鳥部山とは清水寺の南側にある墓域のことを指している。平安時代には六道珍皇寺のあたりで「野辺の送り」を行い鳥部山に運んで葬ったことから、このあたりを六道の辻と呼び習わすようになった。あの世とこの世の境界である。今でも寺の前の松原通を東へ進むと、東大路から先は「清水道」と呼ばれて清水寺に続いている。

二.迎え鐘

 この六道珍皇寺は普段ほとんど参拝客もいないが、年に一度だけ足の踏み場もない程賑わう。それは盂蘭盆会の前の8月7~10日の「六道まいり」の時である。人々は高野槙を購入し、水塔婆を書いてもらい、迎え鐘を撞き、水塔婆を線香で浄め、水回向をして納めるのである。これは先祖の霊を呼び戻し、盂蘭盆会の期間に我が家へ連れて帰る迎えの儀式なのである。
 この迎え鐘は空中に吊るされているのではなく、地中にある。迎え鐘の綱を引っ張って緩めると、地中でゴーンという音が響き渡る。地中からあの世に音が伝わっていくのであろう。この迎え鐘を撞くために、お寺の境内から外の道路まで長蛇の列ができ、交通整理の警察官が動員される。4日間列はほとんど絶えることがない。並んでいる人達は文句も言わず猛暑の中で順番を待っている。先祖の霊を連れて帰らないことには盂蘭盆会を営めないからである。
 六道まいりの期間中には境内で地獄絵図が掲げられる。この絵図は上部に人間が生まれてから死ぬまでの一生の様子が描かれており、下部にはあの世の様子が描かれているが、中でも地獄の描写は細を尽くしており、ぞっとする程の迫力である。この絵図の前で自分の子供に内容を説明して、「○○ちゃん、ほらっ嘘ついたらあかんえ。こんな目に遭うんよ。ええ子にならなあかんえ。」等と言っている母親がいたりする。こういう環境で育った子は知らず知らずのうちに人間には及び得ないものがあることを理解し、宗教心を持つようになるのであろう。

三.小野篁

 この寺は小野篁(おののたかむら)縁の寺としても有名である。小野篁は平安時代初期の官僚で武芸に秀でた人であり、独立不羈の性格で「野狂」とも言われ奇行も多かったようで、遣唐副使を任じられながら正使と喧嘩して唐に行かず隠岐に流されたりもした。最後は参議という高位に就いた。この人が面白いのは閻魔王宮の役人を兼務しており、昼間は朝廷に出仕し、夜は閻魔大王の側で勤めていたと言われている。この閻魔庁への出入口が六道珍皇寺本堂の裏手にあり、現在でも見ることができるのである。この人は多芸多才の方であり、百人一首に「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよあまのつり船」という歌を残している。
 境内の閻魔堂には小野篁像と閻魔大王像があり、双方とも迫力のある像である。また国の重文指定・薬師如来坐像は平安期の作であり、一見の価値のある像である。(2018年5月 大原 精一)
 
関連リンク
六道の辻(2/3)
六道の辻(3/3)