三面川の鮭漁にまつわる話

暮らしのヒント

齋藤 實(東京村上市郷友会)

 我がふるさと新潟県村上市は、世界で最初に鮭の孵化事業を行った地として国際水産学会でも承認され、鮭料理文化でも名を馳せている地域である。氷雨が降り始める頃になると、決まって三面川の「おさらい」(鮭漁)を見物に出かけた少年の頃を思い出す。

 昭和21年に舞鶴城周辺に士族が居住していた村上本町と、その外周に住んでいた町人・職人の村上町が合併したが、それまで役場や小学校が別々に存在していた特異な行政組織の城下町であった。「おさらい」で捕獲された鮭の一部は、士族の家庭には配給されたが、町人の家庭には配給されなかったため購入しなければならなかった。子供心に町人の家庭に生を受けた運命を恨んだことであった。誇り高き士族の本町と町人・職人町との間には、この様な格差が残されていた。

 明治44年に魚つき保安林として指定されたタブの木が繁茂する三面川の河口には氷雨が降り始める頃になると鮭が群れをなして帰って来る。二艘の船の間に網を降ろして川を上下しながら漁をする居繰網や村上独特のテンカラ漁で鮭の水揚げが行われる。この水揚げを地元では「おさらい」と呼んでいる。

 三面川での鮭漁の歴史は古く、平安時代の『延喜式』によれば、927年、越後国から京都へ楚割鮭(今日の塩引き)が献上された記録が書き遺されている。更に古文書によると、1165年に後白河法皇が院宣を出して国領である瀬波川(三面川)で鮭の密漁を禁じた事が記されている。また、『吾妻鏡』には、佐々木盛綱が焼鮭を源頼朝に献上し、これを食した頼朝が「こんなうまい食物があったのか」と褒めたという記述がある。これが今日、村上で酒の肴の珍味として有名な「さかびたし」という料理の食文化に活かされているものと言えよう。

 江戸時代に入り、譜代大名内藤氏の藩政が続く中で村上藩は鮭漁に運上金を課し藩の財源にする政策を採用した。 1751年、下級藩士の青砥武平治が、鮭が母なる川に帰って来るという回帰性に着目し、河口から1.5キロ上流に「種川」と称する人工の小川を掘って、世界で最初に自然孵化に成功した。この事実が、国際水産学会でも承認されている。1852年、フランスが鱒の人工孵化に成功し、カナダでは1857年、鮭の人工孵化に成功している事を思うと、青砥武平治の冷静な観察眼と実行力は、真に画期的な事であった。

 私が教職生活のスタートを切った攻玉社学園の創立者近藤真琴が、明治6年ウイーンで開催された万国博覧会に明治政府から派遣団員の一人として参加した。メンバーの中に鮭・鱒の孵化技術や放流事業を意図していた関沢明清(水産大学の前身、水産伝習所初代所長)も参加しており、近藤とは洋学者村田蔵六の鳩居堂で学んだ同窓の間柄であった。帰国後、近藤真琴によって『養鮭記』という人工孵化に関する重要な記録が残されている。

 フランスの人口孵化技術が、1850年頃漁師と学者によって開発された事に触れて、鮭の分類にも言及している。更に「英国では鮭漁が減少しているため、保護法を制定し人工孵化が行われている」という記述もある。孵化技術については「腹から牛乳を搾るようにして、卵を亜鉛製の器に取り出して雄魚の白子(ミルト)をかけ孵化器に移して流水にさらしておく。腹から卵やミルトをしぼりだす時には、強く押してはならない。」といった細やかな記述も見られる。「越後の鮭(三面川の鮭を意味していると思われる。)は繁殖を心がければ減少する心配はないだろう。人工孵化による放流は、費用もかかり損失も出るだろうが辛抱して、艱難辛苦に耐えて衆人心を一つにして、一国一郷の公益を図らなければならない」と結んでいる。

 我が国の水産資源確保について先見性に富んで卓見と言えよう。歴史の点と線が、人と人との縁によって大きく面に広がることを願いつつ。 

(会報誌 2019年12月)