【第56回卓話の時間】ただひたすら真剣に~齋藤信夫の人生~

会の活動報告

卓話者:齋藤 信夫氏(株式会社パル・オネスト取締役会長)
開催日時:令和6年7月9日(火)15:00~17:00
開催場所:ふれあいふるさと館(県人会館)2Fホール

斎藤信夫氏(松代町出身)が1988年の起業以来33店舗の調剤薬局網を築き上げた自身の生涯を語る

齋藤信夫氏(株式会社パル・オネスト取締役会長)は、十日町市松代地区田野倉出身、2022年11月『ただひたすら真剣に』の自分史を自費出版されました。齋藤氏は、1949年(昭和24年)新潟県東頸城郡松代町(現十日町市)田野倉に生まれ、1967年18歳の時に上京し、印刷会社に就職。そして、理研新薬に勤務、その後医薬品卸の会社へ転職され、ドリンクの会社に転職の後、大森薬品に入社されました。

1988年「有限会社大誠薬局」設立。現在は、「株式会社パル・オネスト」。埼玉県を中心に調剤薬局33店舗を経営、更に東京新潟県人会理事、山平会会長、東京松代会筆頭副会長、新潟越後獅子の会幹事長、東みずほ台商店会会長を務められております。

講演は、生誕から映像と共に氏の人生を坦々と語り始めました。

1967年秋、父と上京印刷会社で社会人の第一歩を

私は、北山小学校、山平中学校、県立松代高等学校を卒業とともに上京しました。「集団就職はいやだ」と云う思いがあった私は、東京で一人で就職したいという希望を両親はすんなりと受け入れてくれて、1967年秋、私は父と東京を目指して出発しました。墨田区十軒橋の姉のところに世話になり、翌日から父と面接に向かいました。3軒目のM印刷に就職が決まりました。これが私の社会人としての第一歩でした。

会社は一週間交代の昼の勤務と夜の勤務を交互にする2部制で、体はきつかった。夜勤は夕食後1時間休めるが、新人はその間に風呂を沸かさねばならず休めない。勤務は朝の8時までだが、仕事は3時頃終わり、先輩たちは寮に帰って寝てしまうが、新人は8時まできっちりと残り、全員のタイムカードを押してからでないと帰れない。朝の5時間一人でひたすら待たなければならない。仕事中は一生懸命で会話もなかった。時には先輩から「厨房に行って沢庵かっぱらってこい」等と、窃盗までさせられました。

歯車に油をさすので同僚が機械に巻き込まれたり、宗教法人の会長の写真にゴミがついたまま印刷して、クレームが来て大騒ぎになり、怒った組長が、カッターナイフを持って私を追いかけ、志村坂下から井村坂上まで逃げたこともありました。

ドリンク会社に再就職トラック運転で配達仕事も

この会社は1年で辞めて、従兄弟の紹介でドリンク会社に就職、トラックの運転で配達だった。何時も重量オーバーでの運転で、ひっくり返りそうになったとき運転の仕方をほかの運転手に教えて貰ったり、シャフトが切れて車が動かなくなりお巡りさんに会社に連絡して、レッカー車を呼んでもらって送って貰ったり、いい時代でした。
パートのおばさんたちとの付き合い方も覚えました。会社を始めてからとても役に立ちました。でも、その会社は突然倒産しました。朝、出社したら入り口に管財人が立っていました。

平成元年11月(有)調剤薬局パル 設立

次に、医薬品卸会社に転職し、この業界に足を踏み入れました。担当は営業で、そこで様々の人と関わりを持ち、弾みから、ついには会社に勤めながら、妻の名義で薬局を出すこととなりました。昭和62年6月有限会社大誠薬局の誕生です。しかしながら、トラブルが発生し、会社をやめることとなり、平成元年11月有限会社調剤薬局パルを設立しました。今度の社長は私です。

場所は、東武東上線のみずほ台駅東口側の11階建てのマンションの1階にオープンしました。
平成6年9月、平成薬品開局して以降次々と新店を開局。現在は年商49億円で薬局は33店舗となりました。年内にはあと2店舗開局となります。

私は1990年にある講演会で法政大学坂本教授の講演に感銘を受け、「企業のトップの考え方」として、次の四つを大切にすることとした。

・社員とその家族
・社外社員と家族
・顧客
・地域住民

これを基本として、会社経営してまいりました。代表取締役は息子の齋藤裕之に譲り、私は、趣味のゴルフとカラオケを楽しみながら、まだまだ会長として頑張っています。そして先般その集大成として、『ただひたすら真剣に―齋藤信夫の人生』としてまとめて出版となりました。

新潟県人会館建設の折には多額の寄付金をされ、故郷の新潟県や十日町市と故郷の地区や産業などにも、折に触れて関わりを持ち続けておられます。氏の真面目な人柄に惚れ込み人生の師として感銘を受けて多くの事を教えられました。

向後共、益々のご活躍を祈ります。
(夢あきら 記)