宴席で語られる越後新潟史(1/2)

会の活動報告

卓話者:立川 昭吾氏(東京新商会会長)
・日時:令和5年3月14日(火)
・場所:ふれあいふるさと館(県人会館)2Fホール
・主催:総務委員会

 今回の卓話者は、新潟市出身、県立新潟商業高校を経て中央大学商学部卒業、東京重機工業 株式会社(現 株式会社ジューキ)入社。関連会社の社長を経て、会社の整理・清算現場に数多く立ち会い、企業の倒産回避のノウハウをマスター。1995年に企業の危機管理に関するコンサルティング会社「株式会社TSKプランニング」を設立。現在、「認定事業再生士」として活躍されている。

「卓話テーマ」独自の角度からの「宴席で語られる越後新潟史」
以下、生まれ育った「ふるさと新潟」が昔どの様なことがあってどうなったか、通常の新潟の歴史を別の角度から見た自説をご披露いただきました。

現在の新潟県の地形の特徴は、日本海側に細長く端から端まで(上越から下越まで)陸路で約330㎞もあり、新潟から東京に相当する長さです。また、日本列島を真っ二つに分断する「3つの断層帯」(糸魚川~静岡構造線、柏崎~千葉構造線、新発田~小出構造線)が走っていて、地震が多く、温泉も沢山あり、不思議なことにその断層帯に春日山などのお城や神社仏閣が造られている。さらに信濃川、阿賀野川を代表とする大河川があり、治水が最大のテーマで江戸末期近くまで越後平野は人が住みにくかった。

(1) 古代「越の国」は、宝石の産出する国でもあった
古くから、糸魚川で産出される「ヒスイ」は、奈良、京の都は勿論原始の時代から宝物として大切にされて 全国的に普及していた。(青森の三内丸山遺跡から糸魚川産ヒスイが発見された。)

(2) 佐渡金山(世界遺産候補)の本当の価値を多くの方は知らない
①東京(江戸)の街づくりは、大半が佐渡金山の金でできあがっていた。

②利根川(日本の長い川2位)の千葉銚子への迂回大工事代金は、佐渡金山がその費用を賄った。

③徳川家康が天下分け目の関ヶ原合戦の勝因は、西方大名に対して徳川家康公が大金山(佐渡)を発見とのニュースを流し、小早川秀秋などが寝返って大勝利したという裏話もある。

④米国のペリー提督が突然、日本(浦賀)に来港して幕府に開港を要求したのは佐渡金山の金を確保することが目的。実際、明治初期に幕府の金貨の大半は米国に持って
いかれた。

(3) 上杉謙信軍団は他の戦国大名とは大きく違った(当時は通称バッタの集団と畏れられていた)
謙信は越後の農民を冬の凍死や餓えを救済するために、現在の10月頃から北國街道や三国街道を越え、冬には雪のない上州や下野等関東地方へとやってきた。(兵士だけではなく、その家族全員で移動してくるから皆死に物狂いで戦った。)川中島の戦いでは全5回交戦したが、4回は10分で解散。4回目の決闘シーンは、霧で前方が見えずに偶然の戦闘だった。謙信が毘沙門天の鬼神のようになったのは、キリストのモーゼのようなカリスマ的な存在だった。戦国時代は、越後や奥州等の領地は関東や東海の武将たちには全く興味のない土地だった。

(4) 良寛さんは、なぜ新潟と岡山とでは全く違う人物像になるのか
岡山県倉敷市玉島の曹洞宗円通寺で修行された頃の良寛さんと出雲崎の五合庵での良寛さんとは全く別人のように映るのはなぜか。岡山での修行時代は、曹洞宗の修行僧というよりは地区の行政官のように活躍されていて、町民にも広く慕われている。しかし、出雲﨑では乞食僧のようで子供たちと手鞠で遊んでいる人物像である。→この差は何なのか。岡山では、今でも偉人のように慕われていて「良寛まつり」や「良寛饅頭」さえも今日まである。 新潟では、書道の大家という評価だけで、本当の良寛とはどんな人だったのだろう。

#2/2 へ続く