宴席で語られる越後新潟史(2/2)

会の活動報告

#1/2 から続く

(5) 東京新潟県人会には新潟市出身の会員がなぜ少ないのか
 他県の県人会では、県庁所在地の会員が活躍されているのになぜ新潟県人会は違うのか。

 ①新潟市の発展が江戸幕末から明治に入って急に発展してきた都市であること。

 ②新潟市の地形が信濃川や阿賀野川等17河川で分断され、海岸線に標高20m の砂丘が72㎞もあり、大河の出口で100年前に完成した大河津分水が出来るまで、3年に1度の堤防決壊の大水害が起きていつも壊滅的な被害が起きた。それは、新潟市がお盆のような形であったから、一回の大雨でも簡単に濁水が「こもり水」となり、それが潟となり、地名のいわれになった。
(明治29年(1896)の通称「横田切れ」は、新潟から長岡まで一面泥海になった。)

 ③新潟市の街づくりは、長岡や高田と違いごく近年の話で、新潟市は現在もまだ開拓中の街であること。

 ④新潟港は、北前船の寄港地ではあったが、多くの北前船は、東北の酒田から佐渡両津港に向かい、両津からは新潟を経ずに能登輪島方面に向かっている。(天候や荷物等によっては新潟にも寄港した。)

 ⑤新潟港は、北前船よりもむしろ信濃川、阿賀野川を利用してモノを運搬する廻船業の終着駅としての新潟港であった。(新潟港は江戸時代、海の航路よりも川の航路として多く使われていたようだ。)

 ⑥1804年ロシアのレザノフ艦隊が新潟港近くに来港し、江戸幕府に、日本海側の「港の開港」を要求。幕府は慌ててロシア艦隊の長崎行きを命じ難を逃れたが、その時に新潟の重要性がわかったことと、新潟津は密貿易が多かったために1843年(天保14年)に長岡藩、新發田藩から新潟を取り上げて幕府直轄の天領とした。初代新潟奉行川村修就(ながたか)が就任し、現在の「新潟市」と「新潟港」がスタートした。川村は、日和山から約5㎞の砂丘に松林をつくり、松林を防風林だけではなく、外国船からの目隠しにして海から見えないようにした。

 ⑦1746年に新潟市内の出来島や流作場を新發田や長岡の豪商等に埋め立て工事をさせて、1889年には中蒲原郡沼垂町流作場(現在の万代)ができた。これらの開拓事業で、現在の新潟市の原型ができあがっていった。

 ⑧平成17(2005)年、政令都市となり、近隣13市町村が合併。人口80万人の大都市になってからは、今度、新潟市は全く別の都市へと変わった。現在も未だ新潟市民の意識が少なく、私は「新津市民だ」「白根市民だ」などと思っている人が多くいる。故に、新潟市民はこの100年間で新潟県内の各地から来た人たちでつくられていた街であり、心の中では新潟市民よりも自分の祖先の出身地を優先する。(私も新潟市民でしたが、心は中蒲原郡横越村沢海の出身だと思っている。)

 ⑨故に「新潟市民」として東京新潟県人会へ入会するのは、60歳以上では中々難しい。本当の新潟市民が誕生(60歳以下)してからの人が、入会するのではないだろうか。

(6) 新潟市内にお城があった。(幻の新潟城が発見された)
 「越後新潟城」の存在は、歴史研究者から発表されていたが、文献資料が全くなく、その存在が否定されていた。しかし、2018年7月29日 岡山大学所属の「池田家文庫絵図」から偶然発見された1枚の絵図に「越後新潟城」の絵姿が出てきた。この発見によって漸く「越後新潟城」が本当にあったことが証明された。


〈越後新潟城〉
1558年:上杉謙信が信濃川と阿賀野川の合流する地点に3港を開港(新潟津、沼垂津、蒲原津)

1578年:「御館の乱」が謙信公死後に始まり、上杉景勝に味方した新発田重家がその恩賞に不満を抱いて、景勝軍との戦いになった。

1581年:新発田重家が上杉方の新潟津を占領。新潟城を築城(3層2楼と1層)舟岡城とも称す。

1586年:上杉景勝は1万の大軍で新潟城を包囲させて陥落させた。以後、3年以上放置されて廃城となって朽ちていった。(現在、白山神社跡地が有力)新潟市には、古代より沼垂城や蒲原城は存在していたが、信濃川や阿賀野川の氾濫によって消滅、その存在が解明しにくく、ために高田、長岡、新發田のように「城」文化がなかった。

 以上、他県に於いても類似した歴史があるが、そこから将来を見通すヒントが得られることを具体的に解説して頂きました。随所に立川先生のご経験を踏まえたエピソードが挿入され大変に分かりやすく、かつ興味深いものでした。

 講演後には、会場から多数の質問が寄せられましたが、その一つ一つに丁寧かつ的確な応答がなされて、内容の理解をさらに深めることができました。(総務委員長 及川 恒夫 / 会報誌:2023年5月)