【第37回文化講演会】音楽家と社会Ⅰ

会の活動報告

主催:(一財)東京新潟県人会館/東京新潟県人会 (企画:文化委員会)
日時:令和7年2月11日(火・祝)14:00~16:00
会場:ふれあいふるさと館2Fホール

今回の講演者・阿部海太郎氏は、1978年生まれ。東京藝術大学音楽部楽理科出身。パリ第八大学第三課程に留学。舞台、テレビ番組、映画…など幅広い分野で作曲活動を行っている。

①佐渡とのつながり

私の父は、両津で漁師をしていた家に生まれ、佐渡高校を出て東京の大学に進学。その後宮城出身の母と結婚し生活の拠点を埼玉に移しました。私は大学入学まで所沢で育ちました。佐渡島へは、幼い頃時々帰省していました。家は、喜太郎という屋号で、スケトウダラやイカ漁をしておりました。祖父は大正3年、喜太郎の長男として生まれましたが、戦争の激しい時代で何度も徴兵され、昭和19年30歳の時にニューギニアの激戦地で戦死したと聞いております。この一度も会った事が無い祖父は私にとって大きな存在です。短い生涯の殆どを戦争に奪われたことを考えると今の自分が生きて、こうして仕事ができている有難さから祖父への思いは強くなります。

それは父にとっても同じで、私に海太郎の名前を付けたことからも現れていると思います。佐渡といえば幼い時目にした伝統芸能、佐渡おけさや木遣、鬼太鼓も大きな思い出になっており、その後音楽を学ぶことになる自分にとって教材ともなっていました。鬼太鼓は両津の港町を練り歩きながら一軒一軒入っていき町並みの風景そのものが舞台になっています。音楽がこのように特別な出来事として目の前に現れることの感動こそが大切だと思ってまいりました。私が作曲の仕事のキャリアにおいて最初に演劇の音楽からスタートし今日まで映画やドラマなど物語とともにある音楽へ関心を抱き続けてきたのは幼少の時の伝統芸能との出会いも影響しているのではないかと思っております。

➁これまでの作曲家としての仕事について

私は、ピアノとヴァイオリンから音楽の勉強を始めました。母が小学校の教員で、音楽の素養が少しあったという事、父は反対せずに見守ってくれました。クラシック以外にも様々な音楽に興味を持っていましたので、大学では楽理科で音楽史、民族音楽、音楽美学などを学び、音楽とは何かという基礎的な研究に関心を持ちまして、フランスへ留学しました。

現在は作曲をしているのですが、作曲に関しては独学で学んできました。帰国後、音楽とは何かを問うことは一生をかけて取り組むべき問題と考え、先ずは身近な友人の伝手で演劇や映画の音楽を作ることから始めました。作曲の仕事というのは説明するのは常に難しいので、NHK高知放送局の取材映像を10分程ご覧ください。

自宅兼作業スペースにはイメージを音にするためにたくさんの楽器コレクションがありグラスも楽器になります。捨ててしまうような不必要なものも含めてすべての音には役割や意味があり、言葉じゃないから表現できるメッセージを音にしています。脚本家の長田育恵さんは阿部さんについて、作品づくりで目指したいもの作りたいものが似ている盟友、そういうものを中心にして光に向かう心の強さみたいなものがあり、この世界というのは美しく信じるに値するということをいつも思って一緒に作品を作り続けてゆける人と語っています。

ハンセン病療養所愛生園(岡山県瀬戸内市)での活動について

およそ8年前から瀬戸内海に浮かぶ長島に通っています。柔らかい波に揺られる穏やかな島なのです。けれど、1930年ここに我が国最初の国立ハンセン病療養所が作られました。(光明園と愛生園がある)1948年よく効く薬が現れ次第に治る人が多くなってきました。若くて障害のない人は退所しましたが、世の中のハンセン病に対する偏見と差別は相変わらず厳しくハンセン病であったことを隠して社会の中で生活しなければならなかったり、外見で障害がわかるような人は家族にまで偏見が及ぶことを恐れ退所できませんでした。国もこの状況を直すことが出来ないまま40年あまりが過ぎ、1996年にようやく入所者が社会に出ることができるようになりました。このような不幸なことが今後起こらないようにすることが大切で、人権啓発活動に力を入れています。2003年8月長島愛生園歴史館を建設され多くの資料を展示しています。現在も200名の方がいらっしゃいます。

この長島にかつて近藤宏一という音楽家がいました。1938年11歳の時に愛生園に入園、2009年に83歳で没するまでその地で暮らしました。戦後、赤痢病棟の看護に従事した際に赤痢に罹患してハンセン病が悪化して失明、四肢障害を負いました。療養所内では入所者が看護の世話をしていたということです。知覚が残されていた唇と舌で点字を学び、盲人の仲間とともにハーモニカバンド「青い鳥楽団」を結成、園内外で演奏活動を行い、晩年までハンセン病問題の啓発に尽くしました。長島に演奏会を依頼されて訪れた時、イベント主催者の方から、音源と資料を見せてもらいました。断片的に聴いた音楽には形容しがたい身体にこだましてたちまち引き込まれることになりました。近藤さんを何も知らないのに作曲家が自らの存在をかけて闘争に似た挑戦を音楽を通じて行っている。そしてそれは音楽とは何かという大学時代からの問いを再び私に投げかけている、そんな音に聴こえたのです。そこから私の調査活動が始まることとなりました。みすず書房「闇を光に」という生前の詩やエッセーを集めたものが出版されていて今日近藤さんを知る上での入門書でもあります。(本の中から詩ふたつ「海のむこうには」「あずき」を朗読。)

ハンセン病の入所者という差別や偏見を受けているんですけれども、常に悲劇を直接語ることはあまりせず、言葉でうまく表現を昇華させているところが凄いなあと思います。本は素晴らしいんですけれども、近藤さんの音楽を知るという意味では不完全で、遺品、演奏会プログラム、楽団のレパートリーを細かく調べました。近藤さんが楽団用にアレンジした曲、オリジナル曲、その二つが両輪となって楽団の音楽活動を支えていたことがわかります。ほぼすべてのコンサートで録音がされていることもわかりました。オリジナル曲「鶴島哀歌」は毎年10月に行われているキリシタン弾圧の慰霊祭で歌い継がれています。盲人のために点字楽譜をつくる作業も大変だったということです。社会学者の有薗真代さんは青い鳥楽団の演奏会には思想的対立を越えた一体感がありました。(素朴な言い方をすると音楽を通してひとつになるという瞬間がある演奏会であったといいます)ハンセン病の歴史はイコール法廷闘争の歴史といいます。差別との闘いであったんですけれども、入所者の中でも対立はあったそうです。無ライ県運動の園長につく側、園長に反対する側と、政治的対立があったそうです。

演奏会には必ず器楽演奏というのがあります。近藤さんが真に音楽活動を披露できる場面でもありました。私の考える近藤さんは非常に理想の高い音楽家であるとともに、音楽を愛する者として芸術至上主義に陥ることはしませんでした。近藤さんの音楽指導に妥協はありませんがアマチュアリズムに素直に寄り添うことができた。素朴な曲なら一つのハーモニカで済むが、複雑な曲では転調が演奏できる「組み立て式ハーモニカ」をつくった。世界中どこにも存在しないものです。問題を乗り越えることは、不自由を不自由と感じないで新しい自由をつくることと深いところでつながっています。

今年だいたい調査は終わり、過去の音源から秀作選をつくって誰でも聴ける状態にして発表することを目標としております。また新たに見つかった楽譜をのこす活動も「近藤宏一の過去と現在」ということで「音源集」は今年発表を目指しています。また愛生園がまもなく100年を迎えるということで「長島愛生園100年誌編纂」という事業が進んでいますけれども、その音楽の項目を執筆する予定でおります。

講演会の様子

(Ⅱへ続く)
(記録 広報・清水)

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