企画:広報委員会
募集期間:2月1日から3月31日まで
会員読者の皆様、ご参加ありがとうございました!
今春、人間国宝三浦小平二 竹子 記念館がオープンしました。
夫婦が長年住んでいた国立市は東京のほぼ真ん中にあり、作陶生活50年の中で小平二はここを拠点に44年間制作をしました。陰に日に、常に支え、共に歩んだ竹子夫人でした。
JR国立駅に降り立つと、目の前に桜並木が続く大学通りを900メートル前に進み、桐朋学園交差点を東に向かい200メートルほど歩くと、子どもたちの元気な声が聞こえる「ママの森幼稚園」があります。
この自然環境豊かな場所に竹子(旧姓五味)は伸び伸びたくましい子供達を育むため生涯をかけ幼児教育に捧げたいと父に懇願して幼稚園をつくりました。少年の日、佐渡の夕日を眺めながら水平線のかなたにあこがれを持った小平二は夢をかなえるべく昭和26年18歳で故郷を出て東京藝術大学に入学しました。
四代続く無名異焼窯元の長男に父は「これからの陶芸家はデッサンと造形力が必要だ」と言い送り、陶芸との戦いが始まりました。ママの森におえかき(美術)講師として招かれ、小平二は作品一筋、竹子は幼稚園一筋、2人は一緒に仕事をする運命だったのかもしれません。戦友結婚しました。
幼稚園の三階にアトリエと窯があり、園児たちの粘土造形と絵の指導を小平二は日々の生活の中で、子どもと接しながら制作活動を続けてゆきました。
オリジナルの作品を作るためによく小平二は竹子を連れて旅に出ました。大自然の中で生きる人々を訪ねてカナダや北欧へ、また中国、インド、アラブ、スペインへ共に旅をし、民族服に身をつつみ、歴史に宗教に生きる人々の中で伝統食を味わいながら、少しでも理解し感動した時に作品は出来ました。
交通事故の後遺症で不自由になった体とガンの手術に耐えていました。よく喧嘩もしましたが、飾らず正直でやさしく頭の良いのには脱帽していました。「気持ちを綺麗にしていないとよい作品は出来ない」と、私ががちゃがちゃすると、それは縁がないのだから考えを直せ、「縁があった人と物を大切にしろ」と作陶展では真っ先に「感謝」をあげていました。
作陶のモットーとして心がけてきたこと「よく見てー集中すること、大きくー小さなこだわりを捨てて一体を見ること、ごしごしとー体を使って努力すること」が最近理解されるようになった。
古典を学び、自然を学び、民族の歴史を学び、独自の作風を確立するために取材や材料の研究を重ねてきた。この感動と喜びが作品のテーマである。回顧展でなく出発のための謝恩の展覧会であると言った小平二73歳で急死。
あっけない別れでありますと竹子夫人は悲しみの中で文に綴り、もっと注意して生活すべきであったと後悔をしておられました。
令和3年竹子は小平二を後世に受け継いでいくために一般財団法人ミュゼ・ミウラを設立しました。
私は国立へ取材に訪ねました。初めてお会いした日、車いすで現れた彼女は温かな人柄と深い優しさで迎えて下さり、沢山の作品と貴重な資料や旅先で見つけた品々などを示して、丁寧にお話を聞かせてくださいました。小平二と私はまるでゴッホとテオみたいと仰っていました。
それからは展覧会を訪ねたり、年賀状を頂戴したりしておりましたが、昨年4月になってミュゼ・ミウラから「昨年末体調を崩し年明けようやく回復、頂いたお便りにも目を通し、お返事を用意しておりましたが、1月17日子どもたちの保育も終わり静かになった夕方98才で他界しました」との竹子さんの逝去を伝える手紙が葉書を添えて届きました。
寅ー夢とエネルギーいっぱいのママの森で五味と小平二の心を持って96才寅は元気に帰ってきました。
辰ーありがとうと握った手のぬくもりを広げたい
骨折り損のいたいいたい…
ありがとうの葉書の裏には「やしの実」の歌詞(この歌は、小平二先生とブリヤート(シベリア)に取材旅行中、バイカル湖の朝もやの中で、二人で口ずさんでいたという思い出の歌です)と添えられていました。
そして今春、三浦小平二・竹子の心を受け継いだ縁のある人々によって夫妻の名を付ける記念館が開館し、桜の花の美しい日ーオープニングパーティーにうかがわせていただきました。
母の日によせて、ママの森幼稚園園長の三浦竹子さんに出会えたことを心より感謝しています。
本当にありがとうございました。
(広報 清水裕美子)
