日時:3月22日(土)12:00~
会場:東京新潟県人会館2階ホール
会長:高石 知子
高橋秀夫永世会長・村山富雄会長を偲ぶ
3月22日(土)ふれあいふるさと館において開催された「高橋秀夫永世会長・村山富雄会長を偲ぶ/令和7年度東京松之山会総会・懇親会」に103名のご来賓・会員が集いました。
改築時、永世会長は「100人が集えるホールを」と熱望されたそうですね。新装開店以来未だどの会も100人規模の集会を行っていなかったそうで、県人会の清水事務局長に「無理無理、入らないよ〜」と言われてしまいました。
わが会の頼りになる常任相談役佐藤昭尾さんの「こうして、こうして、こうすれば、100人は大丈夫!」を頼りに強行しました。86人、98人、…とうとう前日103人に。お2人が東京松之山会の会長として、永世会長として、また県人会の役員として誠心誠意働かれた日々を共有した方々がこぞって参集してくださいました。
そして!会場に溢れんばかりに集ったご来賓・会員のなかから「続かねば!」という声が挙がりましたこと、聴こえましたよね?お2人のご遺徳をみんなで引き継いでゆこう!という確かな心意気がそこここに。
ご休心ください。
改めて一同より謹んで追悼の誠を捧げます。
総会の冒頭で伊藤章二実行委員長はこう口火をきりました。以下――
皆さま今日は献花いただき、ありがとうございます。本会はここしばらく喪中で会長不在が続きましたが、役員の献身的な奮闘で今日に至っています。
まずは十日町市長はじめ遠路ふるさとの皆さま、県人会より廣川さんはじめお歴々。
松代、津南等の友誼団体の皆さま、ありがとうございます。
昭和生まれのふるさと会、最初の頃は威勢もよかったし大勢でした。若かったから。
高橋先生との間柄はお互いに「先生」と呼び合いました。先生はいつもニコニコ明るく、常にプラス思考、卓越した見識を持つプライドを秘めた努力家。
非常にタフで粘り強い方でした。タフとは座間市から県人会館迄2時間、いったい何年通ったことか。
その苦労を嘆く声を一度も聴いたことがない。これはすごいことです。
次に東京松之山会の過去の事業経過を述べさせてください。
●平成3年、創立記念大会を四谷主婦会館で行い(34年前)135名が集いました。
●平成4年、カントリーポエム1号発行(現在396号)県下指導機関、ふるさと全戸無料配布を継続中。
●平成6年、創立3周年記念祝賀会 日暮里 ラングウッドホテルにて。記念誌で500名の会員名簿作成
●平成8年、創立5周年記念祝賀会 代表取締役会長を中島貢氏(松之山水梨出身)が勤めるキャピトル東急ホテルにて開催。
●平成13年の創立10周年記念祝賀会も前記キャピトル東急ホテルに250人が集った。盆も正月もなかった、と先生は述懐していた。
余談ですが、この年帝国ホテルで催行された東京新潟県人会90周年で、三波春夫ショーの「元禄名槍譜俵星玄蕃」に私は虜になりました。
●平成14年、永世会長、会長が中心となって2400人分を搭載した東京布川会40周年記念名簿作成。
●平成16年3月、永世会長の絢子夫人死去。通夜にて献花。小林保廣会長との帰途が今なお鮮明。
●平成18年、創立15周年記念祝賀会。以後上野精養軒でずっと。
●令和5年創立33周年記念祝賀会。ふるさとへ愛燦燦。本日を迎えました。
昔、法政大学に勤務時、片道2時間の電車内の漫画本広告のキャッチコピー「故郷に帰るのではないのです 故郷が帰ってくるのです」に快哉を覚えたと3周年誌にあります。
今の田舎は過疎、さびれてなお増す愛郷心には並々ならぬものがありました。
松之山には23集落があり、先生の出身集落は中尾でした。 同じ集落出身の、吉池の初代高橋與平さんは112歳まで生きて、その半生は教育者でしたが先生は最大最強の薫陶を受けておられた。
月刊『新潟縣人』の題字與平氏同級生の諸橋轍次氏の書はその所縁でしょう。
故郷を想って暮らす贅沢は他に代えがたいと仰って先生は天国に旅立たれました。
同じく坪野生まれの村山富雄会長は驀進する先生を支え、また持ち前の人を魅了する朗らかさを発揮して友誼団体の会長らとの関係を深め、会員相互の親和性に寄与したこと、先生もシャッポを脱いでおられたように見受けました。
以上、長々と申し訳ありませんでした。 本総会に最後までお付き合いをお願いして終わります。
(伊藤章二名誉会長)
総会・懇親会は、高石知子新会長のもと、満場の参会者の故郷を思う心に溢れる和やかさに終始したことを、故人となったお二人にお届けできたこと、参会者皆々様のお陰です。 感謝のほかありません。
(文責・宮崎)
(会報誌:2025年6月号掲載)

