企画:広報委員会
日時:4月30日必着
会員読者の皆様たくさんのご応募ありがとうございました!
今年の父の日は6月15日でした。お父様にまつわるエピソードや大切な思い出、心のこもったメッセージをいただきました。
「父の日」に寄せて
私の父田中一朗は、昭和52年12月5日東京新宿区の牛込柳町の個人病院で、64歳で心不全の為永眠した。父は優秀な男だった。明治大学商科を特待生で、授業料免除で卒業した。また中央大学法学部を卒業している。卒業後は、大手企業に就職し、赤字会社を黒字へと転換させた。実績が認められ、若くして工場長まで登り詰めた。
小千谷出身の田中志津と見合い結婚した。新宿に百坪の総檜造りの家を建てた。当時は、羽振りが良かった。父は学生時代から、酒・煙草などは嗜んでいなかった。しかし、工場長になる頃には、接待で酒・煙草を覚え、芳町の芸者遊びを覚えた。その後、独立して事業を立ち上げ、小石川後楽園に事務所を開設した。だが、事業は芳しくなく、自宅でコンサルト事業を起こした。ある程度の収入はあったが、家計を支える程の成果も上げられず、母はタイプ印刷学校卒業後、自宅でタイプの仕事に従事した。それだけでは、3人の子供達を養っていけず自宅の一部を貸した。下宿人も置いた。父は事業の失敗をあろうことか、酒に逃避した。
20年余り、家族は酒乱生活に翻弄された。子供達は、青春の蹉跌を味わった。母は生活に耐え、その後文学の道に活路を求めた。母の原作は、NHKで放送された。晩年は、父は病に侵され静かになった。父は勉学に優れ、博識であったが、子供達には、何故か勉強を教えることはなかった。老人になっても、テレビやラジオの英会話に耳を傾け、向上心が衰えなかった。
父への想い出は、波乱万丈の生活の中で縷々あるが、私が唯一父に対して、銀座8丁目の老舗天婦羅店「天國」で、母・姉・祖母を招待したことだろう。2階のすだれがある個室で、フルコースを食して楽しんだ。父が亡くなり、半世紀経つが、血のつながりだろうか、父親の生きざまが半面教師となり、我が人生の生き方を教えられた。お父さん、私を生んでくれてありがとう。
(田中 佑季明)
「父」
“父の日や 時々止まる 古時計”
父の日が近づきますとどうして父への想い父への感謝の念が強くなるのでしょう。
父が今 生きて居てくれたら100才は過ぎて居ます。私は父に怒られた記憶はありません。父は私に優しい人でした。小学生の夏休みには小川で上級生と泳ぐことが日課でした。小学3年生の夏休み、父は新潟市内のデパートで私に水着を買って来てくれました。父は「女の子は裸で泳ぐのはおかしいからハイ」とグリーンの水玉模様のかわいい水着を手渡してくれました。試着した私は嬉しくて家中走り回り「ありがとう。ありがとう」と云いながら父に頭を下げた姿が今になっても目に浮かびます。
父は第二次大戦に中国に遠征したとのこと。中国語英語を学んで帰還したと聞きました。物置のような2階に英字新聞や中国語の本等があったのは父の宝物だったと高校生の頃に知りました。
小さな農村で父は土地改良、耕地整理組合に参加して「自分の命まで危ない事を知りながら農村のために尽力した」と涙声で私に話した事がありました。東京へ出張と我が家に一泊して時々農林省、農林中央金庫へと上京しました。朝一番の東急線に乗り長いホームを一度も振り返ること無く電車の人になった父の後姿を思い出します。時々独り言のように話す不満話でも無く、いや不満を私に話したのでしょうか。「出張も大変だよ、日当も何もかも自費で来るんだからな」「自費であっても村々が暮らしやすくなればと思い陳情に来るんだよ」と独り言のように話をすることがありました。
今、父を思いますともっともっと父を尊敬し理解して励ましてあげれば良かったと父に愛されて育ったのに今、後悔でいっぱいです。お父さんありがとう、いつまでも好きです。
“花の下 酔えば軍歌の 父恋し”
(豊田 むつ子)
「父の日に思う事」
私は「手話講師30年・点字講師25年」まだまだ若輩者と反省の日々乍ら父の日に思う事。
父は北海道帯広で会社経営!私が3歳の時、父への届け物が有りお手伝いさんと。父の会社で社員が「社長、目に入れても痛くないでしょう」父はニコニコしながら私を抱いて首を縦に。父は着道楽!帰宅後、着物になり座イスに。私は「待ってました」と座る父の膝の中へ。父は無言で私の頭を撫でるのが常!しかし、幼い私はクルっと父の顔に近づき目の中へ指を!「痛いな!何だ何だ!」父は目から涙を流し乍ら。私は「痛くないと聞いたから」父は片目を押さえ乍ら私をギュっと抱きしめた。
父は絵を描く事が好き。私は父の側に居るのが好き!母が言う「おむつ不要」の子供で。いつもお供である時は山へある時は海へ「汽車」に乗って行くのが嬉しく。父の絵には必ず「遠近法」がありました。4歳から幼稚園の入園の為の試験の時、持参の絵を見て試験官からの質問「自分で書いたの?何故本の前と後の巾が違うの?」私は「遠近法です」「では此の本を描いてごらん」と画用紙と鉛筆を渡され描き上がった絵を見て「なるほど」と。
東京で手話の教室を開いた3年目。父がアキレス腱負傷の為入院間もなく訃報が届き、私は只々泣くばかり。突然父が目の前に手話で「そんなに泣いてばかり居ないで明るく笑って」「お父様!待って!」と手を伸ばすがスーっと消えた。又ある時大きな川を歩いて渡ろうとする父の後を追いかけようとしたら父が追い払う様な仕種で「帰りなさい!」夢では無く見えた一瞬の事。父も勘が鋭くそこも似て居るのかも。
父も私もアルコールアレルギー、酒、煙草、ギャンブル苦手、馬鹿真面目、これじゃモテない私。父はハンサムでモテモテマン!お酒も飲めないのに会社の宴会等には琵琶を弾き、佐渡おけさが十八番!父は会社でドイツから機械輸入時、「短波放送」でドイツ語を勉強し、通訳無しで出来たのは感心!!私が点字や手話を学んで仕事に出来たのも父につながる事だと思う。私の「馬鹿真面目」は父ゆずり。父の日に思う事「父が大好き!感謝の二文字」
(横田 夢)
「父の日」によせて
父の日を前にして、亡き父を思い返しますと、懐かしい思い出が鮮明に蘇って参ります。
実は私の父は、新潟県の西山町の私の小学生時代には最盛期であった帝国石油株式会社の西山油田に勤務しておりました。自宅のありました出雲崎町から西山町の生産現場を見学させて貰い、同社の行事の数々に参加させていただきました事を、昨日の出来事の様に覚えております。
当時の西山油田の石油現場は山の中にあり、夜には明るく照らされた櫓が林立し、動力源としてのパワーユニットの凄い音が山全体に響き渡り、幼心に原油の油臭さと不気味な音に怯えていた自分を思い出します。これらの経験が、私の職業選択に大きなインパクトを与え、大学卒業後には、帝国石油株式会社から分離して設立された石油資源開発株式会社に入社する事になりました。
実は、父が亡くなってから取り寄せた戸籍謄本により、父の生誕の地が、秋田県の当時の日本石油株式会社の八橋油田の宿舎であったことも判明し、これで戦前から戦後の3代に渡り、日本の石油鉱業会社に勤務する家系であることを改めて認識させられた次第です。
父は、西山油田の勤務後は、当時直江津にありました頸城油田にも単身赴任で勤務し、60歳で定年退職してからは地元に戻り、郵便局の臨時職員として郵便配達に従事しておりました。晩年は、2011年の東北大震災の直前に、東京新潟県人会の鈴木副会長が経営されていられた川崎の老人ホームに、母とともに入居させて貰い、95歳の天寿を全う致しました。
私に取りましての父の日は、毎日健康で過ごせる今の自分の存在が、父からの大事な贈り物であるとの感謝の念を改めて感じ、昔を思い出す日になっております。
(石井 正一)

5月号「母の日によせて」に続いて細井ミツ子さんが「父からの手紙」と題して“人を思いやる心”について、えこさんが「父の名前のこと」からと題して“子供の将来を思う親心からの命名”についてご投稿くださいました。会報誌のスペースの都合で掲載できないためWEB広報に全文をご紹介させていただきます。是非あわせてご一読の程お願い申し上げます。
また挿絵は外山康雄さんの水彩画「山紅葉」を掲載させていただきました。
皆様のご協力に感謝申し上げます。ありがとうございました。
(広報委員 清水裕美子)
