随想四季(リレー第206回)
前田 貞芳(武蔵大学名誉教授・広報委員)
私は、1942(昭和17年)3月に北蒲原郡岡方村(豊栄市を経て現在新潟市北区)大瀬柳(現在の表記は長戸呂)に生を受けた。大学(新潟大学)を卒業するまでの22年間は新潟で過ごし、東京大学大学院に進んで以降の60年は東京で生活している。東京に出てからは、石川啄木の歌「故郷は遠くにありて思うもの」ではないが、常に故郷新潟を忘れることなく過ごしてきた。スナック等でカラオケを歌うときには、必ず同級生である一節太郎の「浪曲子守歌」のほかは、美川憲一の「新潟ブルース」、同郷の小林幸子の「おもいで酒」「雪椿」など新潟に関わる歌を中心に歌って過ごしてきた。過ぎし時を振り返り故郷の思い出の一端を綴ってみる。
生家は、阿賀野川流域の蒲原平野の農家で耕作面積は田畑を合わせて2町歩程であったと記憶している。比較的恵まれた農家であったようである。
現在は耕地整理が進み、田んぼは一区画が機械作業に適した大きさに拡げられ、かつ数カ所に集約されているが、当時は一反歩の大きさのものが基本とされてはいたものの、集約されることなく多くの場所に散在しており、また、一反歩に満たない小さな耕地も畑の間に多く存在していた。それ故、農作業には多くの労力と時間を要した。
当時、東洋一といわれた新井郷川の排水機が完成して、用水路は整備され、水害による被害がほとんどなくなっていた。用水路には、鮒、鯉、イトヨ、泥鰌、鯰、雷魚などの魚が多く生息しており、釣りや網掬い等による楽しみを提供してくれた。また、用水路は、夏にはプールが整備されていなかったこともあり、子供たちの水遊び場ともなった。今から考えると、不衛生であるが、水遊びとしてよく活用したものである。
田んぼの畦道には農地を有効に活用するために、枝豆が植えられ、また、農道には稲の乾燥用に使用される稲架木(主にハンノキ)があちこちに散在していた。農作業は機械化されておらず、牛や馬を用いた人手によるものであった。我が家でも農耕用の牛を1頭飼育しており、時々水浴びを含む世話をさせられたことを記憶している。牛のきげんを損ねないように慎重に世話をすることが、大事なポイントであった。
農作業に人手が必要であったことから、小学生の高学年からは、春の田植え、秋の収穫の時期の戦力として欠かせなく、学校も春秋ともに1週間程の休みがあった。その分夏休みは短縮されることになっていた。田植えの手伝いで忘れられないのは、蛭のことである。素足で田植えをしていたので、蛭にかまれないように細心の注意をはらったものである。現在は蛭の話など聞くこともないが。
これらのことは、人間の営みが現代社会で問われている自然との共生で営まれていることを示している。そのことを頭におきながら当時を今少し回想してみよう。
その点から思い出されるのは、春から夏にかけての泥鰌とりと秋のイナゴとりである。当時は農薬がそれほど使用されておらず、田んぼの用水路には多くの泥鰌が生息し、活動が活発になる初夏の時期になると竹で編んだ筒を用いて泥鰌を捕獲することが行なわれていた。場所の選定が重要であり、その良し悪しにより捕獲量が大きく左右された。前夜に竹筒を仕掛けて早朝に回収するので、仕掛け時の競争が起こることになり、仕掛けのタイミングを計ることが、重要であった。タイミング良く泥鰌の棲息数が多い場所に竹筒を仕掛けることができ、翌朝多くの泥鰌を捕獲できたときの喜びは今でも懐かしく思い出される。
泥鰌は当時の食生活の上では重要な蛋白質源で、自宅で消費するほか買い取り業者が定期的に買い取りに廻ってきた。多く捕獲できた時はかなりの金額になり、小遣いとしてのほか学用品の購入にも活用できた。また、秋にはイナゴが群れをなして生息しており、米の収穫量には害があったようであるが、イナゴとりによく出かけ、家での食用のほか、小遣い稼ぎにもなった。小学校でも秋の1日、全校生徒でイナゴとりにでかける行事が設けられていた。その売上金はオルガンの購入等にも活用されたと記憶している。
農耕スタイルが大きく変わり、高度成長によって豊かさを享受できるようになった今日では考えられないことであるが、当時の農村は米を中心とした農作物以外の現金収入はなく、豊かさにはほど遠く、肉や魚はたまにしか食卓にのるのみであった。当時は平野部でも積雪が多く、冬場の食料として鰯や野菜の塩づけが活用されていた。それ故、泥鰌やイナゴ、川魚は大事な食材であったといってよい。
また、積雪も多くひと冬で数回の屋根の雪下ろしを行い、その雪を活用してスロープやカマクラを作り、スキーやカマクラの中でのかるた遊びなどを楽しんだものである。
以上は、自然との共生(活用)がなされていた事例と言えるであろう。現代社会においても、個々の事例に則した自然との共生の工夫が必要であろう。