大原 精一
一.もう一つの六道の辻
京都の鴨川に架かる松原橋を東に渡った先に「六道の辻」と呼ばれる六道珍皇寺があることを昨年の五月号で紹介した。実はもう一つ「六道の辻」と謂われる場所がある。それは松原橋から二辻目、南に曲がると六波羅蜜寺に通じる角にある西福寺である。今は小さな寺であるが、弘法大師の創建にかかる由緒ある寺である。
二、檀林皇后
平安時代の第五十二代嵯峨天皇の皇后に檀林皇后という絶世の美女がおられた。この皇后は美しいだけでなく、仏教に深く帰依された方であり、弘法大師を深く敬っておられたそうである。自分の子(後の仁明天皇)の病気平癒をこの寺の地蔵菩薩に祈願したところ、見事に回復したことから、以来この寺を大切にし参詣を欠かされなかった。
三、檀林皇后九相図
西福寺の本堂は普段公開されていないが、盂蘭盆会(八月七~十日)だけ公開され、その際に「檀林皇后九相図」を見ることができる。皇后は自分が死んだ際に、死体を焼かずに野に晒して朽ち果てて行く様を絵に描き、人々に世の無常を知らしめてほしいと遺言したと言われている。
この図は皇后が死ぬところから始まり、腐敗ガスで腹が膨れ、腐敗汁が出て骨が露出し、蠅や蛆が湧き、鳥獣が腐肉をむさぼり、肉が白骨にわずかに残るだけになり、完全に白骨化し、骨もばらばらになり、最後は土に還り墓も倒れてしまった図で終わっている。
初めて見た時には、ここまで描くものかと暫し声も出なかった。
四.幽霊子育飴
松原通をはさんで西福寺の向いに「みなと幽霊子育飴本舗」がある。創業から五百年近い店であり、京都で二番目に古い店といわれている。この店で売っているのが「幽霊子育飴」である。
慶長四年(一五九九年)、夜な夜なこの店に毎回一文ずつ手にして飴を買いに来る女がいた。ある日店主は銭函にきしみの葉が入っているのに気付いて不信に思い、その女の後をつけてみたところ、鳥辺山の墓地の辺りで見えなくなり、赤ん坊の泣き声が聞こえたそうである。
翌日お寺の住職と墓を掘ってみると飴をくわえた赤子が出てきたのである。
母親は赤子をみごもったまま死んで土葬されたが、赤子は無事に生まれていたのである。死んでしまって乳の出ない母親は幽霊になって飴を買い、乳の代わりに与えていたのだ。母の子を思う心はこのような奇跡を生むのであろうか。
この赤子は八歳までこの店で育てられ、その後仁和寺の近くにある立本寺に引き取られ、立派な僧侶となり、六十八歳の天寿を全うしたそうである。
五.愛宕念仏寺
この店の少し東側に愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)跡の碑が立っている。この寺は大正十一年に化野念仏寺から更に奥に入った地に移された後、荒廃し切っていた。
これを昭和の大仏師・西村公朝師が全国に呼び掛けて、境内に自作の羅漢像を制作させながら、寺の復興に努力されたのである。
千二百体の羅漢像の中には、ランドセルを背負った子供像、笑っている像、酒を酌み交わす像等世間一般の羅漢像のイメージからはかけ離れた像がたくさんある。これらは全国津々浦々の人々がこの寺に通い自らの手で彫った像である。
思わず笑みをもらした後、故人を偲んで万感の思いを胸にこつこつと石を刻んだ人々の姿を想像し、世の無常を感ずるとともに人間に対する愛おしさをも感じざるを得ない。