「河井継之助の無念」

暮らしのヒント

卓話者:三條 和男氏(総務委員、東京関原会会長)

・日時:令和4年7月12日
・場所:ふれあいふるさと館(県人会館)2Fホール
・主催:総務委員会

本年2月に始まったロシアのウクライナ領土への軍事侵攻は、全世界を震撼させています。今後の世界平和について、長岡市出身の三條さんから長岡人気質と絡めて長岡藩家老・河井継之助の心〈武人は、戦うより国を守るもの。〉に迫る卓話を聴いた。

三條和男委員
三條和男委員

◉卓話要旨◉
「民は国の本、吏は民の雇い」を基本精神に藩改革に務める

 幕末、越後長岡藩・牧野家は、徳川譜代の家柄でした。大政奉還で幕府が瓦解し始めた時、長岡藩家老の河井継之助は新政府に対し、「君が臣を討つ非道はすべきでない」と建言。新政府はその建言を黙殺し、鳥羽・伏見の戦いを引き起こしました。
 河井継之助は、慶応元年(1865)、長岡藩主牧野忠恭に取り立てられ郡奉行となると藩政改革に着手します。役人の不正を正し農民からの心をがっちりと捉え、やがて町奉行を兼ねると更なる改革を推し進めて賭博や贅沢を戒め、信濃川の通行税を撤廃して商品の流通を促し、藩からでる余剰米や他領の米を買い、藩が直接関西に売りさばくなどの改革は次々と成果を上げました。
 藩の財政はみるみる豊かになり、大赤字の藩財政を見事V字回復させたのです。
 改革の根底には、「民は国の本、吏は民の雇い」という考え方で、まさに民主主義の根本となるような発想をこの時代に持っていたのです。
 また、軍事総督として「今、薩長の姦臣が天子を推戴し幕府を陥れ政権を奪い取ったが、我が長岡藩は小藩ではあるが、大義のためには孤立してでも、徳川家より受けた三百年の御恩に報いたい。それが義藩というものだ」と。薩摩・長州の野望を見抜き、長岡藩は中立の立場で、新政府軍と会津藩や旧幕府軍との調停役を務めたいと考え、慶応4年5月2日、継之助は小千谷の新政府軍の陣屋・慈眼寺に藩主の嘆願書を持参し、新政府軍の軍監・岩村精一郎らにまず長岡藩への新政府軍の侵攻の猶予を願い、その志を問います。しかし岩村らは、たかが小藩の家老と見くびり、のっけから敵か味方かと迫ります。継之助は何のための討幕か、官軍の名のもとに会津藩や旧幕府軍を討つというが、その内実は私的な制裁と権力への野望ではないか。理路整然とした追及に岩村は詰まり激昂します。圧倒的武力の新政府軍に恭順を迫られても、独自の武装中立を模索。それが拒絶されると、劣勢の兵力ながら新政府軍に徹底抗戦。

会場風景
会場風景

「義」を貫くことの潔さが河井継之助の魅力
 「河井継之助の魅力」は、自由な発想で自ら考えることの大切さや義理や正義といった「義」を貫くことの潔さ、そして、たとえ相手が巨大な組織であってもそこに非があれば立ち向かうことの勇ましさなど、世の中の大きなうねりとともに押し寄せる様々な困難とぶつかった時に、それを乗り越えようとする勇気やヒントを私たちに与えてくれるところがあるのではないでしょうか。

河井継之助の肖像
河井継之助の肖像

 実戦における「継之助の戦法」は、際立っていたといわれます。両翼を牽制しつつ敵の正面を衝き、兵力を集中して敵の戦線を突破し、分散した敵を包囲殲滅。まさに合理的な近代戦の戦法を駆使していました。河井が自ら操った最新鋭ガトリング砲の威力。一度、新政府軍に落とされた長岡城の奪還に挑んだ「八町沖渡渉作戦」。防衛ラインに攻撃を仕掛けて注意を引き付け、その隙に渡渉困難と思われていた沼沢地を別働隊が夜陰に紛れて突破、長岡城を見事奪還しました。
 さらに継之助は、城外の列藩同盟軍と新政府軍の挟撃殲滅を企図しましたが、列藩同盟軍の呼応が遅く、視察に出向いたところを足に銃創を負ってしまいます。長岡藩を率いていた継之助の負傷・戦線離脱は、北越戦争の均衡を崩すことになり、長岡城は再び陥落。継之助は会津に向けて落ち、八十里峠を越える際、「八十里腰抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠んでいます。享年42歳。
 継之助が負傷せず、もう少し時間が与えられていたら、どれだけの活躍をしただろう。そう思いたくなる、惜しまれる死です。
(総務委員会)

(会報誌:2022年09月)