ついに大河津分水の建設がスタート!
大河津分水建設の請願は、寺泊(長岡市)の本間屋数右衛門が江戸幕府へ請願したものが始まりとされています。享保15年頃のことでした。以降、先人たちは大河津分水の必要性を訴え続けますが、なかなか建設にはいたりません。そんな中、慶応4年/明治元年に起こった新政府軍と幕府軍による北越戦争(戊辰戦争)が起こりました。激しい戦乱の中、信濃川が氾濫します。洪水と戦争という2つのダメージが重なり人々はひどく困窮しました。長善館の門下生 鷲尾政直らは、大河津分水の建設を強く訴えます。ほどなくして大河津分水の建設が決定したのは、北越戦争(戊辰戦争)での洪水を経験した新政府の要人たちが、大河津分水建設の必要性を肌で感じていたからかもしれません。明治3年、ついに念願だった大河津分水の建設工事が始まります。しかし、外国人技師が「大河津分水ができると新潟港に影響を及ぼす」との報告などにより、明治8年、工事は中止となってしまいました。
再び動き出した大河津分水建設
工事が再開されたのは、明治29年に起きた「横田切れ」と呼ばれる大洪水がきっかけでした。越後平野全域が水で覆われ、数カ月たっても水は引かず、チフスや赤痢などの伝染病で1,200人以上の人々が命を落とします。明治30年、長善館の門下生であった高橋竹之介は、政府の有力者であった山縣有朋らに、大河津分水の必要性を説いた「北越治水策」を建白します。
明治29年に起きた大洪水 「横田切れ」
出典:信濃川大河津資料館
同じ頃、帝国議会では、同じく門下生の大竹貫一や萩野左門、小柳卯三郎らが、越後の治水の必要性を訴えていました。山縣有朋は北越戦争(戊辰戦争)の際、新政府軍として新潟県に入っていました。
一方、高橋竹之助も新政府側で参戦し、目覚ましい活躍をしています。「北越治水策」建白の際、山縣有朋は竹之介のことを覚えており、大きな信頼を置いていたのでは?と考える人たちもいます。
明治40年、再び工事が決定します。延べ1,000万人が従事したとされる東洋一の大工事は、大正11年に通水。その功績を後世に伝えようと、山宮半四郎は私財を投じて、堤防上に桜を植樹しました。大河津分水の完成により、越後平野は広大な美田に生まれ変わり、燕の金属加工産業も大きく発展することとなりました。現在も温暖化による水量増加で、改修は続けられています。
東洋一の大工事
出典:燕三条の歴史
(3/3)へ続く
(会報誌:2022年04月)