大河津分水通水100周年によせて(3/3)

暮らしのヒント

長善館とは

凡そ30年の間、燕市に住んだ良寛は、水禍と重税にあえぐ農民を見て、何とか救うことは出来ないものかと考えます。その思いを受けて開学した長善館は、代々革新的な教育を行い社会に役立つ実践型の人物を育てました。天保4年鈴木文臺(ぶんたい)によって粟生津村に創設された私塾です。「長善」とは「いいところを伸ばす」という意味で、「困った人を救うために学ぶ」「学んだら実行することが重要」を学是としました。
 文臺、惕軒、柿園、彦獄の4代の館主のもと、明治45年までの約80年間にわたり、1,000人を超える塾生を輩出しました。大漢和辞典の著者である諸橋轍次博士から「越北之鴻都(こうと)」と称えられ、「西の松下村塾、東の長善館」と並び称されました。

大河津分水の建設のために尽力した門下生たち
 信濃川洪水から人々の暮らしを守る大河津分水ができてから、越後平野は日本一の米どころとなり、交通、経済、産業も大きな発展を遂げました。大河津分水建設のために奔走した、長善館の門下生を紹介します。

高橋 竹之介

高橋 竹之介(長岡市中之島出身)
 庄屋の次男として生まれ、20歳のときに長善館に入る。勤王組織「方義隊(後の居之隊)」を創設。北越戦争(戊辰戦争)では、山縣有朋、西園寺公望らが指揮する新政府軍に加わり功績をあげました。その後に長岡で開いた「誠意塾」では、長善館の門下生でもある大竹貫一が学んでいます。「横田切れ」の翌年には、大河津分水の必要性を説いた「北越治水策」を、山縣有朋らに建白しました。

鷲尾 政直

鷲尾 政直(新潟市黒鳥出身)
 大河津分水の重要性を提唱しながら、用弁係として一次工事にも従事しました。その後、民部省で全国の土木工事に関わります。門下生たちと信濃川治水会社を作り治水運動を進めました。鷲尾が主導した治水工事で代表的なものの1つが中ノ口川左岸堤防です。

大竹 貫一

大竹 貫一(長岡市中之島出身)
 庄屋の6男として生まれる。実家の大竹家は歴代治水に精力を注いでいました。「横田切れ」の発生後は、国会で政府高官に対し、人々の窮状と大河津分水建設の必要性を説きました。通算16期、34年にわたり衆議院議員を務めました。

萩野 左門

萩野 左門(新潟市黒埼出身)
 29歳の若さで県議に当選。明治27年、44歳で衆議院議員となり、15年務めました。大河津分水工事の起工や新潟市の新川の開削に貢献しました。

小柳 卯三郎

小柳 卯三郎(新潟市中之口出身)
 県議3期、衆議院議員も3期務めました。「横田切れ」以降は、同じく長善館の門下生である萩野左門らと上京し、政府の要人たちに建設を要望しました。

◎ ニュース ◎
長善館プロモーションムービー「越北之鴻都私塾 長善館」
 NPO法人地域文化アーカイブス主催「第18回全国地域映像コンクール」において、長善館を紹介するプロモーション動画「越北之鴻都 私塾長善館」が、「梶原拓記念奨励賞」を受賞しました。長善館の残した功績や、長善館の教えを現在の人材育成につなげる取組を紹介しています。この機会にぜひ受賞作品をご覧ください。
制作:燕市教育委員会
監修:燕市長善館史料館
詳細:燕市ホームページ

燕市の通水100周年プロジェクト
 燕市では、令和3年度から各種事業を展開しています。大河津分水建設の歴史・役割はもとより、分水の完成によりもたらされた恩恵などを改めて学ぶことに加え、分水の建設には私塾 長善館の門下生たちの活躍が大きく貢献したことの周知を図ることを事業のベースにして展開しました。
 職員IDカード・名刺、公用車に5名の門下生の似顔絵をデザインし、PRしています。また社会人向けの教養講座「燕大学」では大河津分水をテーマに3回シリーズで開催しました。(燕市のホームページで閲覧できます。)4月新年度からも各種企画事業が展開され、通水100周年を盛り上げます。

(会報誌:2022年04月)