山田 セイ子 氏 (首都圏野人会)
「前衛を狙え! 疲れてるぞ!」相手チームのヤジ。「キャップ、先輩、がんばって!」後輩たちの声援。応援合戦の続く中、ジュースの連続。なんと22回も。
前日の団体戦優勝に続いての個人優勝を決めた瞬間、私はコートに倒れ込んでしまった。昭和41年7月30日、新潟市白山市営コートで開催されたオールデンタル(全日本歯科学生体育連盟)大会最終日のことだった。表彰式ではこみあげてくる思いを抑えきれず、思わず涙がこぼれ落ちた。忘れられない熱い青春の涙だった。そのころ短大は、大岡山から移転して間もなく、テニス部もまた、二人の先輩のお力で、神奈川学生連盟に加盟し、そのつながりで初めての専任コーチを関東学院大学のHさんにお願いし、さあこれからという状況だった。
そんな中で、思いがけなく、私にキャプテンの大役がまわってきた。さっそく部員勧誘に始まり、練習メニュー作り、コーチとの打ち合わ神奈川連盟、歯学連盟との連絡などなど。見るも聞くも初めてのことばかり。でもそんなこと言ってられない。私の責任は、テニス部の目的である良い成績を残すことである。そのために私は何をなすべきなのか。自問自答の毎日だった。「おまえら今日の練習に身が入ってない。コートに全員正座だ!」コーチの怒鳴り声。私は、練習に出てこない部員とのミーティング。デートに忙しい年頃とはいえ、テニス部の一員の意識を説く。「これから社会に出て、小さくても必ず組織の中で過ごす自分のための修養だと思って欲しい」いつしか私は母親のような気持ちになっていた。
厳しい練習が終わり、横須賀の街にネオンがつくころ、みんなでワイワイと食事をした。また、試合前は必ず顧問のK先生が食事に連れて行ってくださり、初めての「大トロ」を前にみんなのほころんだ顔を、今もなつかしく思い出す。
卒業してから現在まで、毎年全国各地から、時には家族ぐるみで集まり、K先生、Hコーチを囲み、楽しいひとときを過ごしている。振り返ってみれば短い間ではあったが、この経験は、私のその後の人生の原点となり、多くの人との出会いで学んだことは、年月の数倍もの価値と、何ものにも代えがたい私の宝物となっている。
あとがき
これは、私が卒業した短大の50周年記念誌に書いたものです。短大で軟式テニス部のキャプテンを経験したことで、幼いころから引っ込み思案だった私が変わりました。今では友人に子供のころの話をしても「え?」と信じてもらえません。この経験から、自分の子供には、大人の考えで興味のあるものの芽をつまないよう、「えー、できるの」と思っても「やってみたら」と話すようにしてきました。
(会報誌:2020年1月)