村上藩と上野大仏

暮らしのヒント

災難引き受けた不屈の仏さま
中村 修平(東京村上市郷友会)

【出会い】
 以前、上野の山に行ったとき上野大仏を見たことがあった。ブロンズの大きな仏像の顔のレリーフだった。そのときは面白いものがあると思っただけだった。ところが、偶然、JR御茶ノ水駅の通路壁に掲示されている上野大仏のポスターを見つけた。合格大仏として人気があるという。


上野大仏の案内板

【堀家と上野大仏】
 そこで、その大仏を見に行ってみた。像のある小山のふもとに案内板があった。読んで驚いた。この大仏が1631年に、村上藩主だった堀直寄が寄進したものだとわかったからである。直寄は外様十万石の大名で、村上忠勝のあとに村上城主となった。城を整備し、村上の城下町としての原型を作った人物として知られている。村上大祭のスタートも直寄の時である。これが縁となり、上野大仏についてもっと調べたくなった。すると、新たな人物が浮上してきた。江戸初期、幕府に大きな影響力を持っていた天台僧、天海大僧正である。天海は将軍秀忠、家光の信任厚く、秀忠は上野のおよそ半分の広大な土地を天海に寄進した。(17万坪といわれる)それまではうっそうとした森だったようだ。この地はもともと島津、堀、藤堂の屋敷があったところを秀忠が収公して、天海に与えた。天海はこの地に徳川家の祈祷寺をつくろうと考え、かくして江戸一番の広大な寛永寺が誕生した。天海は京の名所を寺内に配置したいという念願をもっていたが、将軍家と意見が合わず援助もカットされ資金難だった。上野公園内の清水観音堂は京の清水寺を模して舞台づくりとなっているが、大名の援助でつくられた。
 天海と京都でつながりのあった直寄にも白羽の矢が立ち、大仏建立を依頼される。これは、京の東山にあった方広寺の大仏を模して造られた。今、パゴダとお顔のあるあたりに建立した。寛永8年(1631)のことである。


昔の上野大仏

【災難続く仏様】
 その後、この仏は災難が続く。最初の釈迦如来は粘土づくりでその上を漆喰で固めたもの、上屋はなかった。戦国乱世の犠牲者の供養のための造仏である。しかし、16年後の正保4年(1647)の地震で倒壊する。そして、明暦・万治(1655~60)の頃、木喰僧の浄雲が唐銅で大仏をつくる。元禄11年(1698)、この像に屋根がつく。享保年間(1716~35)にも被災していて、この時は空無上人が約7mの青銅像を作っている。さらに天明期にも難があったが復旧する。そして、天保12年(1841)火災によって仏殿が消失する。今度は、直寄の子孫である越後村松藩主の堀直央(なおひさ)が、大仏を新たに鋳造し、幕府が仏殿を建てた。直寄の長男直次は直寄の一年前に亡くなっており、幼い孫の直定が家督を継いだが、次男直時は村松に3万石を与えられ安田の城主となる。直定は7歳で没し村上の堀家は絶家となる。村松の堀家は明治まで続き大仏の再建に尽力してきた。安政2年(1855)「安政の大地震」で大仏の首が落ちるが堀家が修復する。明治6年、上野公園が構想される中で、建築物の整理があり、仏殿はその時取り払われている。そして、大正12年(1923)、関東大震災でも頭部が落ちる。そこで寛永寺はお顔の部分だけを本寺に移して保管した。第二次大戦中は胴体部分の供出を余儀なくされ、顔の一部だけが残された。寛永寺は大仏再建の青写真もつくっていたが、戦争のために実現しなかった。保管されていたお顔を昭和47年(1972)再び元の場所に戻して、大仏再建のシンボルとして壁面に固定した。

【再建を願う】
 今日のレリーフに至る波乱の歴史である。これで、堀氏との関わりや時代の背景も少し見えてきた。創建以来およそ4百年、何度も首が落ちている災難の多い仏様である。
 何度も首が落ちたが、もう二度と落ちないという一種のしゃれで、合格大仏として信仰されるようになったという。戦前、吉川霊華画伯による再建のための下絵が描かれ、青写真が残されているという。もう一度、上野大仏の当初の姿を拝めないものか。再建されることを願う。

上野寛永寺の住職 浦井正明さんの書いた、『上野公園に行こう』(岩波ジュニア新書)『上野寛永寺将軍家の葬儀』を使わせていただいた。『藩史大事典』(雄山閣)も参照した。