「桜の情景」の記憶

暮らしのヒント

樋口 高士

毎年、桜の季節になると、決まって私が、思い起こす一句がある――

さまざまの事思ひ出す桜かな

 今年は、某社のCMにも使われて、連日、テレビ画面から流れていた。一見、現代人のなにげない感慨のような感じを受ける句であるが、松尾芭蕉(1644~1694)の紀行文集『笈の小文』(おいのこぶみ)所収の「名句」。
 現在、私の住まいがあるのが、横浜市域の南部を西から東へ縦断して流れる大岡川の遊歩道沿い。地域の桜の名所で、桜の季節は、黙っていても、向こうからやってくる。三月に入ると、早くも、「桜祭り」のぼんぼりと、ライトアップ装置が設置される。やがて、芽吹き、三分咲き、七分咲き、満開へ。そして、花吹雪。そんな時間の移ろいの中で、私の思いは、ごく自然に、遠い日の様々な桜の情景へと導かれる。
 そこで、それらの中の、忘れ難い二つの桜の情景を記してみたい。

1、一本立ちの桜の樹の下に、[皇太子殿下]が現れた

 昭和六十年(1985)四月のこと。当時、わが家は、三浦葉山の南の外れの裏路地を入った山の際にあった。
 私は、毎朝、この裏路地を抜けて、海岸の方へほぼ一直線に延びている道(県道森戸海岸線へ通じる)を十二、三分程歩き、バス停・御用邸前から逗子駅に出て、東京の勤務先まで「二時間通勤」を続けていた。
 この一直線の道(旧・石井好子邸、日経海の家等点在)に一本だけ桜の樹があった。
 道路に面した普通の家の、庭先に立つ樹の枝先が、大きく道にせりだしており、道を歩いて行くと、ほぼ真正面に見えたのである。
 その日。いつものように、七時に家を出て急ぎ足で歩いて行くと、満開の桜の木の下に、何やら白装束の(ように見えた)一団が現れた。朝早くから、何事かと思いながら、近づいてみると、何と、トレパン姿の皇太子殿下(当時)と美智子妃、そして、お付の人たち六、七人の一団だったのである。ジョギングをかねた朝の散歩だったのであろう。殿下は、葉山の地を愛され、地元の人たちとも親しく接しられると聞いていたので、すれ違う時、私は、ごく自然に「お早うございます」とご挨拶をすると、殿下も、軽く会釈をされたのだった。
 葉山の地には、三十年程居住(本籍地であり、第二の故郷のような処)していたのだが、こんな思いがけない遭遇は、この一回だけである。

2、 見知らぬ地(当時)の病院に入院退院後眼にした満開の桜

 平成四年(1992)四月。前章の七年後のこと。勤務の帰途、午後十時半頃だったろうか、新橋駅から逗子駅までの中間地点・横浜駅に近づいた地点で、猛烈な頭痛に見舞われた。たまらず、横浜駅で下車。ベンチに横たわり、近くの駅員の方に症状を訴える。すぐさま、救急車の手配が行われ、担架で駅東口に着けていた救急車に運び込まれる。車は、闇の中を何処ともなく向かっていく。二十分程で到着した病院で、幾つかの処置が施され、一過性の高血圧症という事であったが、そのまま一週間の入院という事態となったのである。
 当時、横浜は全く未知の地域で、入院していた病院の地理的な状況が全く頭の中にないまま、ベッドに横たわっていた。その間、家族の付添も付き、会社からも上司などが、見舞いに現れたりし、一週間後、漸く退院という事になった。
 退院の日。家族の者と最寄駅(京急線南太田駅)に向かう途中の小さな公園の、四、五本の桜が、まさに満開であった。この時の、私の感じた鮮烈な印象は、「生の喜び」といったものではなかったかと思う。
 実は、この地は、その後私が都心回帰のような心持で、移住してきた現在の住まいのごく近くで、大岡川を下流に向かって約七百メートル降った処。現在、私は、この同じ病院(見違えるように改装)に、「心房細動」という病名の症状治療のため、四週おきに通院している。そして、今年も又、この公園の満開の桜を眺める。不思議な縁(えにし)というべきか。

(会報誌 2017年06月)