“日本の食堂王”と呼ばれた男 加藤 清二郎 

暮らしのヒント

創立101周年を迎えた『聚楽』の創業者

加藤 清二郎

昭和39年〜昭和55年 第6代東京新潟県人会会長

株式会社聚楽都内を中心にレスラン32、ホテル7、グループ会社弥彦観光索道株式会社(弥彦山ロープウェイ、弥彦さくらの湯)を運営

波乱万丈の一代記

「安田善次郎氏の教え」を信じ進学はせず、実社会へ

古くから庶民の娯楽の一つにバクチがあった。明治の白根でも盛んにおこなわれていたが清二郎はおじさん連中が夢中になっている賭場へそっと入り込み景気が良さそうな人の横にチョコンと座る。
すると「小遣いだ」と言って十銭玉を何枚かくれる。それを元手に小博打(若い者が打っているレートの低い賭場)へ行き、有り金を全て張る。当たればデカイが外せばパーだ。弱冠5歳にしてバクチを打っていた。

小学校から成績優秀で愛読書は雑誌「実業の日本」。
安田銀行創始者・安田善次郎氏の「実業界で大いに成功しようと思ったら学識より経験、理論より実地」これを無条件に肯定し進学をきっばり断る。
新潟市内の海鮮問屋へ見習奉公に出た後、陸軍へ志願入隊。除隊後、母から借りた三百円を元手に相場の世界へのめり込む。
時は第一次大戦による特需で未曽有の好景気、張るに張りまくって十万円(令和の価値に換算すると・一膳めし屋は見た目や清潔二億円?)ほど儲けた。友達感に問題ありを集めて飲めや歌えやのどん・洋食店はかなりあったが値ちゃん騒ぎ、いくら使ったっ段が高くチップも取られ料て明日また倍の儲けが出るの金が不明瞭だと徹底的に遊んだ。

大正9年3月、株価大暴落。
東京は急速に都会化してお全てを失い、夜逃げ同然で樺太へ渡り、鉄道建設に従事。
半年で五百円を稼ぎ帰郷するも再び相場に手を出し全てを失う。

「三つの条件」を満たす事業の発見のために働きだす

大正11年4月11日、加藤清二郎は上野駅に降り立った。
「危ない夢は棄てて、堅実な実業によって身を立てよう」

一、時代が要求しておりそれを充たす施設がないこと
二、実生活に関係深く発展の可能性のあるもの
三、社会奉仕と自己営利とが両立するもの


これらを兼ね備えた事業を発見するため菓子問屋の配達係として働き始めたのだ。
八か月後着眼したのは「民衆食堂」だった。

・一膳めし屋は見た目や清潔感に問題あり
・洋食店はかなりあったが値段が高くチップも取られ料金が不明瞭

東京は急速に都会化しており洋服の会社員も増えている。勤め人も学生もご婦人も気軽に入れる明るくて清潔で、尚且つ安くておいしいものを提供すれば市民は必ず喜ぶに違いない。早速浅草で人気の洋食店で住み込み修業を始めた。八時から夜十一時まで働き詰め。3か月辛抱したが身体を壊し店を離れる。2か月の療養後、大正12年5月再び樺太へ出稼ぎに出る。

大正12年9月1日【関東大震災】発生。
その一報は樺太にもすぐにやってきた。東京在住の親類よりバラックですいとん等を売る飲食店に行列が出来ているという。「東京復興に安くて誰もが気軽に入れる食堂が絶対に必要だ。今すぐ東京へ戻ろう」

焼け野原を目の当たりにし民衆が望む食堂の必要性を確信

同年11月14日 上野・西郷像の前で焼け野原を目の当たりし、民衆が望んでいる食堂の必要性を確信した。
しかし資金が圧倒的に不足している。この時上京していた兄にも協力してもらい、故郷新潟にいる父のもとへ急行する。過去の失敗からそう簡単に金を貸してくれる父ではなかったが兄の口添えもあってようやく了承してくれた。父からは店舗建設のための材木代三千円、親類友人から八百円、自身が樺太で蓄えた三百円、合計四千百円を手にし、すぐさま東京へ引き返した。

大正13年3月、神田須田町の一角に『須田町食堂』を開業

次は場所の選定。当時交通の要衝であった神田・須田町交差点わきに空地を見つけ、交渉の末何とか借りることが出来た。店の建設は兄に一切を任せ、自身は再び過酷な重労働が待ち受ける浅草の料理店へ舞い戻り、最終の準備段階に入った。ここで重要な人物と出会うことになる。
原田 屯(はらだ たむろ)氏 新潟県西蒲原郡赤塚村出身。同郷でもあり、誠実、勤勉な彼に大衆食堂で一番重要な料理と仕入を任せ、自身は新店開業に注力する。大正13年3月関東大震災の爪あと残る東京神田須田町の一角に簡易洋食「須田町(すだちょう)食堂」が開業。西洋料理と言えば庶民にとって高嶺の花。その洋食がどこよりも安く三銭五銭八銭均一。須田町食堂へ行けば気軽にハイカラなカレーやカツレツが食べられると、たちまち市民の間で話題となった。

弱冠25歳の店主加藤清二郎の項目に及ぶ「使用人の待遇法」

店主加藤清二郎はこの時弱冠25歳。創業前の決意ノートには「使用人の待遇法」として五十項目にも及ぶ具体的な対処方法が記されており、事業を始める前から事業を大きくすることを前提として食堂事業へ参入したのだ。
順調な滑り出しでスタートした須田町食堂。確かに店は繁盛し連日お客様で賑わっているが、初めての事業で問題が出ない訳が無い。備品の補充、設備の拡張、店の運営、八か月でこれらを見直し、同年 月須田町食堂二号店京橋営業所をオープン、運営は店員たちに任せ自身は店舗展開に注力していく。

「向こう五年間は断じて他の営業に手を染めぬこと」創業前のノートに記した通り創業から六年間は「須田町食堂」のみを二十五店舗に拡大していった。その後、旅館事業へ参入し、企業や学校の専用食堂も手掛けるようになり創業十周年にあたる昭和9年、株式会社聚楽(じゅらく)を設立。
戦中は軍需工場の給食事業が拡大し昭和18年には最大八十九もの営業所を運営するも昭和20年8月の残存店舗はわずかに五店だった。
戦後は飲食営業緊急措置令など飲食業界にとっては厳しい日々が続いたが食品販売や旅館業で事業を継続する。
昭和29年国鉄上野駅構内に「上野駅聚楽」(昭和7年に上野駅地下食堂として開業)を再開すると日本も高度経済成長期に突入、新潟県にテレビ放送を実現するべく弥彦山山頂ヘアンテナ塔を建設するためその資材運搬用のロープウェイ建設に奔走、昭和33年自身が社長となり「弥彦観光索道株式会社」を設立する。

同年新潟駅舎改修工事に伴い新潟駅地下に「新潟聚楽」を開業、翌年には上野駅横に伝説の巨大レストラン「聚楽台」をオープン。昭和37年には上越線列車食堂への参入を果たし、「じゅらくよ〜ん」のCMで一世を風靡した「ホテル聚楽」を近代的な設備にリニューアルするなど次々と事業を拡大していった。

基本情報
本社所在地 〒101-0062
東京都千代田区神田駿河台三丁目四番地龍名館本店ビル9階南
創業年月日 1924年(大正13年)3月10日
資本金 一億円
代表 取締役社長 加藤 治
店舗数 ホテル:東京(1)/静岡(1)/群馬(2)/福島(1)/新潟(1)/兵庫(1)
レストラン:東京(27)/神奈川(1)/新潟(3)/宮城(1)
主な関係会社 ・弥彦観光索道株式会社(ロープウェイ・レストラン経営)
〒959-0323 新潟県西蒲原郡弥彦村大字弥彦2898
・弥彦桜井豪温泉さくらの湯
〒959-0318 新潟県西蒲原郡弥彦村大字麓1970
・株式会社ワールドダイニング(牛角・温野菜の経営)
〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台三丁目四番地龍名館本店9階
聚楽グループ(飲食)
画像引用:須田町食堂 秋葉原UDX店公式HP

新潟県人会館から一駅!「須田町食堂 秋葉原UDX店」

JR秋葉原駅電気街口から徒歩1分。改札を出て、右側に直進すると見える大きな建物(秋葉原UDX)内3Fにあります。
店内調度品は大正レトロを意識。聚楽創業当時の昔懐かしい下町の洋食屋を再現しています。
店舗は全面ガラス張りで、開放的な空間となっています。

UDXビルのこの円柱のガラス張りの建物が目印です。
3F(上側)が「須田町食堂 秋葉原UDX店」
※2F(下側)は「PRONTO(プロント)」です。

詳細情報
・平均予算 昼:501~1000円 夜:1501~2000円
・クレジットカード 利用可(VISA、マスター、アメックス、DINERS、JCB、Discover、銀聯)
・電子マネー 利用可(Suica、PASMO、ICOCA、iD、QUICPay)
・QRコード決済 PayPay、d払い、支付宝(Alipay)、微信支付(WeChat Pay)
・Wi-Fi有
※画像・詳細情報は須藤町食堂 秋葉原UDX店公式HP(閉業)より引用

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