三島由紀夫は四谷で生を受けた

暮らしのヒント

随想四季(リレー第205回)
細井ミツ子(東京新潟県人会・相談役)

三島由紀夫が生を受けたのは我が家の直ぐそばの永住町2(現・四谷4-22)

私は、四谷に嫁して60年経ちますが、昨年の商店会の印刷物で「三島が四谷の生まれである」ことを初めて知りました。若い頃からずっと三島の作品は読んでみたいと思ってきましたが、彼が十代に書いたと言われている『仮面の告白』や、その後の『金閣寺』くらいしか読んでおりません。若い頃によくこんな文章が書けたと思うほど、表現の難しさ、判りにくい文字の使い方など、到底私には理解しがたいものでした。

『仮面の告白』によれば、新宿区永住町2番地とあるが、現在は四谷4丁目22番地となっており、そこで生を受け、父方の祖母によって育てられた、といいます。それを知ってから新宿通り(国道20号線)から靖国通りに抜ける道を何度も歩いてみた。現在は地名も変わっており、その辺りには大きなマンションがいくつも建っております。近くには「田安神社」があります。この「田安神社」は、徳川御三卿の一つで、田安家の別邸跡といわれています。

そこで、我が家も何十年も買っている八百屋へ行き、何か三島について知っていることを教えてほしいと訪ねてみました。この八百屋も三代続く店で現在の店主に聞いてみると、「ああ、うちのおじいさんが、三島のおばあさんがよく買い物に来てくれたよ」と言っていたとのことでした。そこで町会の長老の方が知っているかもしれないとのことでしたが、その方も九十歳を過ぎていて、今はちょっとということでしたので断念いたしました。

三島由紀夫は永住町からランドセルを背負って学習院初等科へ歩いて通う

三島は小学生の頃、学習院初等科へ多分歩いて通っていたと思われます。初等科は四谷駅からすぐですが、永住町からは多分歩いて通っていたと思います。現在私どもの近くからも、あの制服を着た小学生がよく通りますので、そう推察しているのです。

三島の父親は高級官僚であったそうなので作家としての教えを受けたとも思えませんが、祖母に育てられたので、小さい頃から読書三昧だったことは考えられます。
それでなければ十代であのような作品は書けなかったのではないでしょうか。しかも洋物にも詳しいのですから驚きです。私は文学に詳しくはありませんが、あの歴史上に残る大作家、劇作家である三島由紀夫が近くで生まれたことに大いに気を引かれました。

『三島由紀夫―悲劇への欲動』に三島の強い「感受性」と「欲動」を学ぶ

三島は大正14年生まれですから、当時はまだ車も少なくあの黒いランドセルを肩に新宿通りを通っていたのでは…と思うと何か不思議さを感じます。また後年、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で命を断った場所も新宿区ですし、そこもよく通りますので、三島のことを思った次第です。三島のような凄い作家の五十年前の心境など、凡才の私には知る由もありませんが、三島についての多くの著作のある佐藤秀明氏の、『三島由紀夫―悲劇への欲動』(岩波新書)によれば、三島は病的な強い感受性と、前意味論的な欲動を持ち合わせていたとありましたが、感受性の強さはある程度わかるとして、後者の意味は何度読んでもよくわかりませんでした。

三島由紀夫が新宿区の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で命を断って50年―

三島は住居も西信濃町(現信濃町)や渋谷区大山町へ移転したようですが、私は四谷に生を受けたことに関心を持ち、それのみに触れました。三島由紀夫(平岡公威)は、昭和45年11月22日、その命を断ちました。享年45歳。もう五十年経ちますが、その多くの作品は死後も延々と人々に読まれています。