松之山校友会に想う

暮らしのヒント

50年前の「地すべり」でふる里・松之山を去る
 過日の6月19日、御徒町吉池食堂で松之山校友会第50回の総会が開催され(カントリーポエムNo.365既報)会長に推挙されました志賀照雄です。下川手松口の出身です。宜しくお願い申し上げます。
 松之山校友会の前身が「地すべり会」であり、あれから50年も経つのか…と考え深い思いです。実は私も地すべりで「ふる里」を離れた一人です。家族で離れたのが昭和46年、松之山校友会発足の年でした。中学1年の時、地すべりが起き、その後勉強場所も中学校、松之山高校、松高寄宿舎、そして3年の時新しい中学で学び、卒業する事が出来ました。しかし私達の家や田畑は、毎日少しづつ崩壊して行きついに決断の時がきました。
 昭和45年の初夏の夜、家長の父から静かな口調で、今年に入って準備をしてきた事の話をした後で、
一、今年の秋・収穫後この家を出て千葉県船橋市へ行く。
二、そこで牛乳販売所を行って生きて行く。
三、照雄(私)は会社に転勤願いを出してくれ。
四、雅二(弟)は松之山中学校を卒業したいとの事で、湯山の親戚に卒業までお願いしてある。
 そして最後に「これは家族が生きてゆく為に皆で力を合わせて頑張ろう」と言う父の目に涙が流れていたのを覚えている。
 これからが大変であった。我々は理解せざるを得なかったが、祖母(当時70歳)は「私は死ぬ迄ここにいるよ。行かないよ。」と嫌がる祖母に「家族だから一緒に行くんだよ」と説得を繰り返した4日後、祖母から「私も連れてってくれるかい?」と言って来た。この間の祖母の揺れる心の結論にまた涙した。

千葉県船橋で家族力を合わせ新しい生活を始める
 その秋、郷土の皆様に別れを告げ、初めての土、千葉県船橋市薬円台に着いた。住まいはアパートの1階1Kの一間。祖母の生活の場所である。父母は牛乳販売店の2階4.5畳一間が生活場である。朝3時に起きて父は牛乳販売店の営業と販売・管理を、母は自転車に乗れない為片手に約10Kg位の牛乳瓶を両手に持って3時間かけて3回配達に行ってくる。帰ってきたら、保管庫の清掃と翌日の準備の日々。私は翌年の2月1日付人事で、千葉支店勤務となり独身寮に入る事が出来た。
 私は当時津南町に勤務していた関係で旅立つ日、津南駅のホームで一人、松口の方向に深々と一礼して郷土に別れを告げた事が想い出される。
 弟は同年の3月の中学卒業後、千葉県立船橋高校定時制(夜間)へ入学出来た。昼は両親の牛乳販売店を手伝い、午前11時から中華店へアルバイト。夜は学校への生活。その後、大学へ進んだが、なにせ金が無い。知人のアパートで管理人をやりながら住み込み、4年間で卒業したのには頭が下がった。私も負けてはいられない。日直や宿直、残業や休日出勤等、人の嫌がる事も積極的にやり、30代で念願の自分の家を持つことが出来、両親・私達・子供と3代の同居が叶った。家の完成祝いの時、父が「よく、ここまできたな…」と言って盃に口をつける、両親の背中は小さくなったと感じた。その時撮った両親の写真は30年以上経って色褪せてしまったが、今でも床の間で私達を見守ってくれている。

左:村山 東風雄前会長 右:志賀 照雄会長
左:村山 東風雄前会長 右:志賀照雄会長

集合写真
集合写真

松之山校友会 会長 志賀 照雄

(会報誌:2022年09月)