2024.7.27 ユネスコ第45回世界遺産委員会
於:インド・ニューデリー
「佐渡の金山」世界文化遺産登録のご挨拶
この夏「佐渡島の金山」がユネスコ世界文化遺産に登録された。
「絶海の孤島」、「日本の縮図」などとも言われ、世界的に見れば日本海に浮かぶ、ごく小さな小島の「佐渡ヶ島」が単独で世界文化遺産に登録され、「世界の宝」として認められたことに、大きな喜びと、誇りを感じます。
この事業に首都圏での関係者として携わった一人として振り返って見るに、人類が後世に残すべき貴重な遺跡、景観、自然などを保護・保存しようという目的で、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)がユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の総会で採択されたのは1972年。最初の世界遺産が誕生したのが1978年。日本が世界遺産条約に締結したのが1992年。(先進国で最も遅く125番目だった。)日本最初の世界遺産登録は1993年の「法隆寺地域の仏教建造物」と「姫路城」の2件だった。今回登録された世界文化遺産「佐渡島の金山」は国内で26件目(文化遺産21件、自然遺産5件)、世界では1223件です。
思い返すと
- 佐渡地区に島内有志で「世界遺産を考える会」が発足したのが1997年
- 佐渡市に「佐渡金銀山室」が設置されたのが2004年
- 県の担当部署や県議会の議員連盟が発足したのは2007年
- 「佐渡島の金山」がユネスコ暫定リスト入りしたのが2010年
- 佐渡を世界遺産にする新潟の会が発足したのが2012年
- 佐渡を世界遺産にする首都圏の会が発足したのが2014年
その間四半世紀が経過し、紆余曲折あったが全国、新潟県内、佐渡市内、そして首都圏在京の新潟県人会、佐渡人会等、官民一体となってのご協力、ご尽力が実を結び、大きな果実となって結実し、2024年(令和6年)7月27日、インド・ニューデリーで開催された世界遺産委員会で全会一致という形で世界文化遺産登録が決定いたしました。ありがとうございます。そして、おめでとうございます!そして今後は、「佐渡島の金山」の保存、活用の為に更なるご支援、ご協力を賜りますよう重ねてお願い申し上げます。
パブリックビューイングでは東京新潟県人会館2階ホールにて「世界遺産委員会」の審議模様や、花角英世新潟県知事の「サンキュースピーチ」を拝聴、インド・ニューデリーの現地の知事に映像を通してお祝いの言葉をのべ、登録の喜びをかみしめました。「佐渡島の金山」が未来永劫「世界の宝」として、「金色に耀き続ける」ことを祈念するものです。
(令和6年7月吉日 佐渡を世界遺産にする首都圏の会 会長 山本顕男)
各地でのパブリックビューイングの様子
事務局に頂いたコメント紹介
- 国の特別記念物「トキ」で知られた、佐渡市に「佐渡島の金山」が世界文化遺産として加わり、世界に誇れる宝を持つ佐渡島となりました。今後の島の発展を祈ります。今日迄頑張った首都圏の会の皆様と今回の決定を喜びたいと思います。(菊地 亨)
- 佐渡の場合は世界遺産として人気が続くと思う。価値があります。(坂田正通)
- 世界遺産登録おめでとうございます。早速先週ドイツの知人を金山に案内しました。(信田庸二)
長かった「佐渡金山の世界文化遺産登録」
長い間、島民の願いであった「佐渡の金山」が、苦難の歴史を越えて2024年7月27日ついに世界文化遺産に登録された。発表の当日は、パブリックビューイング会場でインドからの中継を見て、皆で「万歳!」を叫び喜んだ。
私が世界遺産登録活動に携わったのは、2013年「佐渡を世界遺産にする会」の要請によるものだった。当時民間の世界遺産活動のグループは佐渡と新潟にあったが、どうしても首都圏に同グループを立ち上げたいと言う強い願いがあり、私への相談であった。
その年の秋「佐渡を世界遺産にする会」会長の企画で、ユネスコ大使だった「木曾功先生」を講師に招いて「佐渡の世界文化遺産登録活動について」というテーマで上野西洋美術館の講堂で講演会を開催することになり、私は200名の参加者を募る役を担った。来賓に泉田裕彦県知事を招き、首都圏では初めての「佐渡を世界遺産にする会」主催の講演会だった。準備は周到に進んでいた。しかし思いがけない事が起こるものである。急に皇太子殿下の西洋美術館ご見学が決まり、我々の準備のための入館時間が制限され、講演会開会への影響を心配したが何とか定刻に講演会を開くことが出来た。その後、「佐渡を世界遺産にする会」の首都圏での立ち上げについて各方面に働きかけたが進まず、憂鬱な日々が2年ほど続いた。そんなある時、首都圏佐渡連合会の役員会を終えた目黒駅のホームで先輩が笑顔で近づいてきて「世界遺産の会を連合会で立ち上げることになったよ!」と教えてくれた。その時の私の驚きは筆舌に尽くしがたく、今でも鮮明に覚えている。長い間、自分では切り拓くことが出来なかった厚くて高い障壁が一瞬のうちに消え去った気持になった。
その後は連合会の中で準備委員会が立ち上がり、事務局長を中心に組織の骨格を上手に作ってくださり、私も佐渡との連絡担当として組織の一員に加わった。
連合会で作っていただいた組織は本当に素晴らしいものであり、12の郷土会から均等に理事を出して会を構成し、会長は首都圏佐渡連合会長、副会長は金銀山の構成資産のある郷土会会長とするものであった。会の名称は「佐渡を世界遺産にする首都圏の会」とした。2015年の事である。
こうして初めての「佐渡を世界遺産にする首都圏の会(以後首都圏の会と呼ぶ)」理事会開催にこぎつけた。理事メンバーは初対面の方も多く、個々の考えなども知る由もなく心配していたが、「首都圏の会」の理事が各郷土会の総会に列席させていただき1年を過ぎるころになると、理事同志は勿論、郷土会の会員までも気持ちが一緒になり、募金活動なども順調に進むまでになった。はじめ組織の骨格を作っていただいた連合会の先輩諸氏に感謝、感謝である。
そして「金の道」をはじめと する首都圏での沢山の活動をこなすうちに「絆」はますます強まり、首都圏佐渡連合会の中の時限組織(世界遺産登録までの組織)とは言いながら、こんな素晴らしい会に成長した事、そして人生のアディショナルタイムをこんな素晴らしい組織に身を置いて過ごすことが出来た幸運に感謝し、今後は一緒に活動した素晴らしい仲間と親交を温めながら、佐渡・新潟の変遷を眺め、傘寿から先は穏やかな老後を過ごしたいと願っている。
(令和6年8月3日 前「佐渡を世界遺産にする 首都圏の会」事務局長 石塚豊)
20年前の感想
佐渡島内のある首長さんから、「島内で佐渡の金銀山を世界遺産にという話が出ている」とお聞きしたのは、佐渡市誕生前の平成15年頃のことである。
「佐渡空港の滑走路をジェット機が離着陸できるよう拡張したい」ということも併せてお聞きした。
「このままでは、佐渡は高齢化と人口減少で大変なことになってしまう。観光客を増やして佐渡の発展と活性化を図りたい。」という思いがその根底にあったのだと思う。
その時私は意見を言うことは差し控えたが、「いずれも容易なことではないなぁー」という感想を持ったものである。その頃は「世界遺産」という言葉が国民に十分に浸透しているとは言い難い時代で、当時の世界遺産は、「法隆寺」、「姫路城」、「京都」、「白川郷」、「奈良」など海外にも知られた有名な観光地であったからだ。それから数年後に「石見銀山の世界文化遺産登録」のニュースを聞き、「佐渡の金山も世界遺産に」という希望が湧いてきたのは私だけではないだろう。
平成16年、佐渡市が誕生し世界遺産推進を担当する部署が新設され、世界遺産登録に向けて本格的に動き出したことを知った。そのことが契機となって、政府、新潟県に議員連盟が、佐渡市、新潟県、首都圏に「佐渡を世界遺産にする会」がそれぞれ発足し、政官が力を合わせて、又地元佐渡と新潟と首都圏の関係者が協力して取り組む体制が整備された。その頃私も「佐渡を世界遺産にする首都圏の会」が実施する各種の講演会や「金の道ウォーキング」に何度か参加させて頂いた。
「いずれも容易なことではないなぁー」との感想を抱いてから20年余経った。その一つの「佐渡島の金山」は、紆余曲折を経てこの度ついに世界遺産に登録された。7月27日、首都圏で開かれたパブリックビューイングに参加して、その瞬間に立ち会わせて頂いた。もう一つの「滑走路の拡張」は実らなかったようだが、旅客機の就航が現実味を帯びてきている。「夢は大きく」持ち、「粘り強く」懸命に努力をすると、「容易ではない」ことも「成し遂げられる」という実例を見させていただいた。
観光地を訪れる人々は、素晴らしい観光地を見るだけでなく、地元の人達との「ふれあい」を求めています。最近の観光客の旅行の形態は、昔のようにツアーガイドが観光客をぞろぞろと連れ歩く姿は少なくなってきています。インターネットやSNSで、地元の人でさえ知らないような場所や物を探してやってくる人たちが増えているのです。
外国からの観光客を見かけたら「よぉ佐渡にきたのー」、「おめぇーどこからきたんだっちゃ」、と佐渡弁で声をかけて、「さざえのつぼ焼き」や「ワカメの味噌汁」や「魚の干物」でも上げてみてください。きっと「佐渡島」のファンになって、「もう一度行ってみたい」と思ってくれるようになります。
島の一人一人が「おもてなし」の気持ちで接して頂くと、観光客はもっと多くなると思います。
今後の皆様の活動を期待しています。「佐渡島の金山」の世界遺産登録おめでとうございます!
東京河崎会会宇長 美 岩夫
パブリックビューイングの詳細はこちらの記事:「佐渡島の金山」ユネスコ世界遺産登録!