一、慎太郎さんとの“出会い〟
私の石原慎太郎さんとの最初の出会いといえば、昭和31年(1956)、『太陽の季節』で第34回芥川賞を受賞した時。当時、大学・文学部を目指して浪人中の私にとって、大学在学中の若者の芥川賞受賞は、大きな驚きであった。早速、掲載誌『文藝春秋』を購入したことが思い起こされる。以後、文芸誌に発表される作品は、ぽつぽつと読んでいた。
そんな、作品を通してだけの〝お付合い〟が、ぐっと身近なものになったのは、昭和47年(1972)、私が東京から神奈川県の逗子市に移住してからである。逗子に越してきて、すぐ気が付いたことが、この町と石原慎太郎・裕次郎兄弟との深い結びつきだった。
私が、逗子の町で行きつけの床屋をどこにしようかと、最初に入ったのが「逗子銀座通り」のBarber Shop。私が、逗子に越して来たばかりと話すと、主人が逗子のあれこれを話してくれ、さりげなく、自分が逗子中学で、投手として捕手の裕次郎とバッテリーを組んでいたことを話してくれたのだった。
床屋といえば、こんなこともあった。私が、やや裏道的な「新道通り」を歩いていると、先方のあまり目立たない床屋から慎太郎さんが、ぱっと出てきたので、びっくりした。後で分かったのだが、その夫婦だけでやっている床屋が慎太郎さんの行きつけの床屋で、かの〝慎太郎刈り〟は、そこの主人の考案になるものとか。
逗子に越してきて三年程して、逗子の山際から海辺の新しい住まいに引越す。逗子駅前から海岸廻り葉山行のバスで約10分。バス停「切通し下」で下車。右に曲がり海岸に向かって下った処にできたマンション。その曲がり角に、大きな古い平屋建の家があった。この家が、海運会社幹部の父が逗子に定めた住まいで、慎太郎兄弟は、ここで育ったのだという。
マンション4階のわが家からは、正面に江の島、右前方の山腹には、新・慎太郎邸の佇まいの「眺望」が楽しめたのだった。
5歳年上の慎太郎さんの訃報に接して、早や8ヶ月。慎太郎さんとの諸々の事が、次々に思い起こされるのであるが、その一つのシーン。1980年代の事。慎太郎さんが、影のオーナーであった若者向け雑誌・『いんなあとりっぷ』誌。この雑誌の編集長に、大学同級の旧友SEKI君が就任したことにより、私も勤務の傍ら、客員ライターに。ある時、編集室を訪れている時、突然、慎太郎さんが自身の原稿をもって現れ、例の早口で、二、三の注意点を述べ、待たせていた車でさっと帰っていったのだった。
二、石原慎太郎の晩年の二著作
作家・政治家の石原慎太郎さんは、それだけでなく評論家、映画監督、クルーザー愛好家、冒険家、作詞家…として生涯に実に多くの作品を残している。
ここでは、その中から最晩年の二作を採り上げ、慎太郎さんへの〝はなむけ〟としたい。
『天才』(2016・1・20・刊 幻冬舎)
作家・石原慎太郎が、田中角栄『私の履歴者』、田原総一郎『戦後最大の宰相』など、参考文献欄によれば30余もの田中角栄関連の資料を渉猟、角さんの「一人称」で書き下ろした異色の作品。
本書が出版された時は、内外に大きな反響をもたらした。それは、かつて「反田中」の急先鋒だった石原氏の「田中絶賛」の書だったからである。
私自身、刊行時、即書店に走ったものである。本書を読んでみれば、なぜ石原氏がこの作品を書いたかがよく判る。
石原氏は、巻末の「長い後書き」で、〝角さん〟が、戦後日本の基盤をつくり上げた、先見性に富んだ政治家であることを明解に述べている。
又、ロッキード事件は、アメリカの仕組んだ欺瞞と遠謀であると、明確に記していることは、大変うれしいことである。
『「私」という男の生涯』(2022・6・20・刊 幻冬舎)
本書は、死後出版することを条件に、最晩年、作家、政治家として、自身の歩んできた道を丹念に記した「自伝」。
前半は、幼少期からの歩み、好きな「海」、「クルーザー」のことなどを淡々と記している。しかし、後半になると、ややトーンが変わり、政界のドロドロした内幕、子まで設けたという男女間の関係などが、生々しく語られているのである。ここにきて、「死後の出版」という条件が納得できるのである。
表紙の「帯」には、「死して初めて明かす『わが人生の証明』」。と記されている。
(会報誌:2022年10月)