蕎麦・そば・ソバ~わが生涯の「蕎麦行脚」の記~

暮らしのヒント

随想四季 (リレー第204回)
記:樋口 高士(広報委員長・東京十日町会会員)

私は、蕎麦が好きである。蕎麦はその味も形態もいたってシンプルだが、なんとはなしの「味わい」がある。毎日でも食べたいと思っている。

私のふるさと越後妻有地域は、古くから蕎麦処として知られている。私が蕎麦に「開眼」したのは小学校4、5年生の頃だったろうか。子どもながら「そば好きの子」などと云われていたような気がする。
そんなことで、私は東京に出てきて家庭を持ってからのこの60数年程の間、わが家に「十日町名産 妻有そば」を取り寄せ常備。折りをみては、自分自身で入念に茹で、水に晒し、笊(ざる)に「手ぶり」盛りし、春夏は麦酒を、秋冬はぬる燗の清酒を友に食べている。
そして、勤め仕事の傍ら務めて各地の蕎麦屋を巡り、蕎麦を存分に味わってきた。これは、そんな私のこれまでの生涯の「蕎麦行脚」の記である。

1、越後妻有の風土が生んだ「十日町そば」の味覚

昭和30年(1955年)3月。私の住む十日町市域でも、既によく知られていた「千手の小嶋屋」(現・小嶋屋総本店)が、十日町市四之町に店舗を構えた。その場所が、たまたま私の母の実家「糸屋・阿部家」の斜向かいであったこと。出店に当たって阿部家の方で多少のお世話をしたということで、主人の小林辰雄さん(現・小嶋屋本店・初代)と懇意になり、私自身も小嶋屋の蕎麦を食べる機会が多くなった。そして、またたく間にその味覚のとりこになったのである。

小嶋屋の蕎麦が代表する「十日町そば」の、あの独特なしこしこ・つるつる感は、一体どこからきているのか。それはズバリ、「ツナギ」に「布海苔(ふのり)」を使っているから。現在の「ソバ切」形態の蕎麦(江戸寛文年間から)は、ソバ粉8:2ツナギ(小麦粉)の配合。小麦粉の無かったこの地域では、牛蒡の葉などを使っていたのだが、小嶋屋総本店(大正11年(1922)創業)の初代・小林重太郎さんが古くから麻織物の産地であるこの地方で「緯(よこ)糸」精錬に使用していた布海苔に着目。これをツナギに使い、あの食感を創出。まさに「風土」が生んだ味覚と云えよう。

2、ふるさとから東京へ出て、各地の「蕎麦屋」巡り

昭和31年(1956年)、ふるさとを後にして東京へ。
私の蕎麦屋巡りは、まず身近な処から。下宿の西荻窪の近くでは、当時既に有名店として知られていた本むら庵(杉並区上荻2)。通学していた早大構内周辺の三朝庵(馬場下町62)、金城庵など。後の勤務先・博報堂本社傍の「割子そば」で有名な出雲そば本家(神田神保町1)

東京での生活にも慣れ、蕎麦への関心が一段と深くなると、江戸期以来の老舗系列の店などの探索が始まった。江戸末期には約3,000店の蕎麦屋があったという。

〈藪〉系列
  • かんだやぶそば(神田淡路町2)
    藪総本家。「せいろー、いちまいー」と謡う如く注文をとる。
  • 並木藪蕎麦(台東区雷門2)
    江戸の風情を残した藪御三家。
〈砂場〉系列
  • 巳町砂場(港区虎ノ門3)
    大阪発祥で江戸では最も古い。天保10年から当地で営業。
〈更科〉系列
  • 布垣更科(品川区南大井3)
    玄そばの中心部の真っ白いそば粉だけを使うのが特徴
〈一茶庵〉系列

不世出の蕎麦名人・片倉康雄氏が大正15年に新宿に一茶庵を開いたのが始まり。「蕎麦道」を徹底追及。育てた弟子達が次々に新店を立ち上げている。

  • 一茶庵本店(足利市本城3)
  • 鎌倉一茶庵(鎌倉市雪ノ下1)
  • 横浜元町一茶庵(横浜市中区元町1)
3、遂に行き着いた究極の馴染みの蕎麦屋

白楽天(772 ~ 846)の『村夜』

霜草蒼蒼蟲切々 秋深く虫すだく
村南村北行人絶 村の道には人影もない
独出門前望野田 独り門前にいで山野を望めば
月明蕎麦花如雪 月明らかにして蕎麦の花雪の如し

この漢詩の一節「如雪」から店名を採った『如雪庵 一色』(三浦郡葉山町一色1987)

私は、1982年に葉山町下山口の地に自居を持ったのだが、わが家から下駄ばきで行ける近所に一茶庵系の屈指の名店があったことが、なにより嬉しいことだった。
主人の浅野さんはとにかく徹底した「蕎麦道」の人。最良の蕎麦粉を求めて全国行脚。石臼挽き自家製粉。葉山の文人町長・田中富さんも当店を贔屓。花見時などに鎌倉から小林秀雄、里見敦など錚々たる文壇名士を招待。丁度そんな折、私も遭遇したことがあった。(当店は残念ながら数年前閉店)